「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

バラードの二十世紀のアメリカ

●「22世紀のコロンブス


バラードの本のうち、何冊かはかなりレアな代物で、古書店で万単位の値が付くものがある。復刊される前の「コンクリートの島」や、いまなお入手困難な「死亡した宇宙飛行士」、「22世紀のコロンブス」などがそうだ(いまもそんな値が付いているのかは知らないが)。私は「22世紀のコロンブス」を神田のSF系古書店にて8000円で買った。そこではオールディスの文庫化されていないハヤカワSFノヴェルズやキルゴア・トラウト、サンリオSFのレアな奴があった。レムの分厚いピルクス物語も数千円で買ったりした。もうあんな買い方はできない。

この本はバラードにしては珍しくコミカルに描かれていて、未知の場所を探索する冒険小説として読める。舞台設定は邦題通り22世紀、アメリカは石油資源の枯渇により住人達は皆世界各地へ散っていき、無人の荒野になり、その後のベーリング海峡のダム建設により、アメリカ地域は熱帯気候に変じ、人も住みづらく作物の育たない不毛の砂漠になってしまっていた。そこを訪れたのが主人公ウェインをはじめとするイギリスからの調査隊一行。アポロ号と名づけられた蒸気船に乗って、マンハッタンに到着するのが冒頭の場面。

そこで、海岸に近づいた時に乗組員が発した以下の台詞が、書き出しになっている。ここからしてこの小説が一種のデフォルメ・パロディの手法によって描かれたユーモア小説であることがわかる。

「金だぞ、ウェイン、どこもかしこも金粉だらけだ! さあおきろ! アメリカの大通りってのは、ほんとに金で舗装されてるぞ!」

これは単に昼下がりの夕陽が海岸を照らしているのが、輝いて見えただけの場面だけれど、ほんとに金で舗装、という言い方に、乗組員たちのアメリカ像がなにかしらおかしいのがわかる。この小説は、砂漠化し廃墟と化したアメリカを辿るうちに、主人公ウェインらが持っている「アメリカ幻想」が浮き彫りになり、そこからアメリカという巨大な幻想と憧憬のイコンを戯画的に描き出すという企みによって書かれている。ある意味、伝統的な諷刺SFであり、SFの王道、異星探検のようなSF的趣向を未来のアメリカを舞台に換骨奪胎したものでもあるだろう。そしてこの小説もやはりバラード的「闇の奥」の変奏という性格を持っている。

ユーモア小説なので、主人公のウェインという名前や、アポロ号という船名といった風刺的な命名は頻りに出てくる。「インディアン」という章から出てくる、アメリカを脱出しなかった少数部族には、それぞれエグゼクティブ族、プロフェッサー族、ゲイ族とか名前が付いているし、一行が出会ったエグゼクティブ族の人々には、GMゼネラル・モーターズ)、ゼロックス、ハインツ、ペプソデント、という“マンハッタンで大企業が製造していた製品にちなむ名前”がつけられている。他にも、ビッグマックセブンアップという名前の者もいる。(何故妻の名前がゼロックスなのか、という問いに、すてきなコピーを作ってくれるからね、と応じる場面がある)

主人公ウェインは次代アメリカ大統領になるという妄想を持っていて、それが元もと探検隊の一員ではない彼を密航に駆り立てた動機なのだが、他にも何人か大統領になるという妄想を抱く者が現れる。アメリカン・ドリームのひとつの象徴としての大統領はこの小説のキモでもあって、後半出てくる、ラスベガスに陣どる狂気の自称大統領はこの話の最大の狂言回しである。

この自称大統領の名前は、チャールズ・マンソンだったりする。チャールズ・マンソン大統領!

全体そんな感じの戯画的ガジェットが満載の楽しげな小説で、バラード作品の中ではもっともポップな小説だろう。あんまり高い金(8000千円とか)を出してまで買う価値があるとは思わないけれども、面白い作品ではある。アメリカ大衆文化をよく知っていると、より楽しめるだろうと思う。私にはわからない部分も多かったので。


●「千年王国ユーザーズガイド」

J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド

J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド

「22世紀のコロンブス」と「J・G・バラード千年王国ユーザーズガイド」を並列して読んでいると、非常にしっくりくるというか、現代文明批評的視点が共通しているので面白い。「ユーザーズガイド」はバラードエッセイコレクションといった編集で映画、伝記、科学、SF、作家、視覚芸術、自伝といったジャンルごとに短文を区分けし、バラードの興味の範囲の広がりを教えてくれる。主に収録されているのは新聞雑誌などに書かれた書評の類で、未訳の本も多いが、書評それ自体が面白く、バラードファン必読というキャッチは正当なものだろう。

バラードはよく文化的事象を比喩的に文章に取り入れるが、この本にはそういったバラードの文章の背景事情をかいま見ることができる。
昭和天皇についての本の書評の中で引用されているエピソードが面白かったので引用。

数少ない息抜きのひとつが十五歳のときに訪れた。父、大正天皇が自分の側室のひとりを裕仁の部屋に行かせたのだ。戻ってきた彼女は大正天皇にこう報告した。「皇太子殿下はセックスに科学的な興味をお示しになりましたが、時間がたつにつれてごくごく普通の結論に到達されました」おそらく未来の海洋生物学者も同じようにして誕生したのだろう。
7980P
誰に聞いても彼の結婚生活は幸福だったようだ。ただし、彼の新妻が姑からもらったのは究極の結婚祝い――セックス・テクニックと確実に男の子を授かる方法を説明するイラスト入りのエロ本――だった。
80P
他にも面白いところはたくさんあるのだけれど、バラードの資質がよくわかる指摘をしていた箇所を見つけた。「未来のホビット族?」という章のスターウォーズ評で、基本的に批判的なスタンスで書いているのだけれど、ひとつ積極的に肯定している要素がある。それは、CG技術の向上についてで、「皮肉なことに、ようやくいま、発達したテクノロジーの衰退ぶりを表現できるほどに映画技術が進歩したのだ」と書いている部分だ。

確かに、スターウォーズの画面の特徴のひとつは、超テクノロジーがなぜかレトロで錆び付いていたことにあった。それは当時の技術がまだ発達しきっていないせいかも知れないが、近未来の輝かしい雰囲気、というものではなかったことは確かだ。バラードは、未来の廃墟を楽しんでいる。


戦争、ポップカルチャー、メディア、といった二十世紀の象徴的文化現象を縦横無尽に語る語り口も面白くて、「スーパー・カンヌ」よりはバラード特有の文体はうまく訳せている気がする。これを読んでいて、バラードはやはり結構古いタイプの小説家だという印象を持った。古い、というのはバラードが自分自身を古典的な小説家という風に形容することとも関係するが、彼の好む小説も、グリーン、コンラッドなどというタイプで、ばりばりの実験的作風の作家に言及するのはあまり見ない。バロウズがそうとも言えるかも知れないが、たぶんこれはバラードのポップアート嗜好との関連であって、文学的手法としての実験性に興味があるわけではないように思う(といっても、バロウズは読んでいないのでわからないが)。誰かが、バラードには文学的教養が欠けている、と言っていたが、つまり、文学の文学、というような小説には興味がない、文学史そのものには興味がない、ということだろう。これは、「残虐行為展覧会」をよむとよくわかると思う。実験的で断片的だが、ここではやはり何を書くかが重要であって、書く方法そのものを追求しようというのとは違うのではないか。

どう書くか、よりも何を書くかを重視しているのがたぶんバラードで、その点はクリストファー・プリーストと対極にある。プリーストは明らかに方法論的な作家であり、現代的な文化現象を小説に取り込むことに積極的ではない。

少し偏った見方だが、私はサイエンス・フィクションは二十世紀の真の文学であり、書き言葉が死滅し視覚イメージの支配が訪れる前に、おそらく最後に存在する文学形式だとかたく信じている。SFは、現代小説のなかでも正面から社会、テクノロジー、環境の変化を扱う数少ない形式のひとつであり、社会の神話と夢とユートピアを発明するという点では、たしかに唯一の小説形式だ。
29P
バラードの小説観、SF観の簡潔な要約。

そういえば、バラードの文章(「スーパー・カンヌ」の時も)を読んでいる時、頻りに連想されたのは矢作俊彦だった。矢作俊彦はネットのインタビューや小説を少し読んだだけだが、文化的事象の語り方やその認識の仕方、つまり文体、文章の質において、似たタイプだと思う。