「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

プリースト補足、買った本

アクセス数がいきなり倍になった日があったので何かと思ったら、2ちゃんねるから直リンク。http://ime.st/inthewall.blogtribe.org/というようなアドレスから人が来ている。これは元のリンクがどこかわからなくするもののようで、これだけだと元をたどれない。でもまあ、リンク直前に書いた記事から考えたらすぐ見つかったので、ちょっとレスを。

考察が甘いのは自覚してもいるのですが、とりあえず「ケルベロス第五の首」は未読ですよ、と。読もうとは思うんですが。

●プリースト補足

プリーストの「魔法」(「奇術師」もかな)はそのあまりに簡潔な記述や文体と裏腹に(というか、それを利用して)、そこにどんどん色んなものを重ねていって解釈を多義的に開いていくという特色がある。「魔法」ではオーソドックスな恋愛小説に、さまざまなジャンル(ネタバレ配慮)が多くの層になって積み重なり、複層化していくというプロセスをたどる。「The Glamour」というシンプルなタイトルがさまざまな意味を含んだかたちで作中に取り入れられ、解説でネタバレに配慮しつつ慎重に記されているように、韻を踏んで他の語にも繋がるというような多義性を、構成の妙で表現するのがプリーストの面白いところだ。

だから、単純な記述や単語の背後に、さまざまな意味や解釈を読者が個々に書き込んでいくことが可能で、リーダビリティの高さに抵抗するように多義性が働き、一定の緊張感を小説に与えている。そしてこの多義性は一点に収束するのではなく、拡散していく志向を持っている。推理小説的な手法に近しい手法を用いながらも、推理小説的な読み方と相性が悪い(らしい)理由のひとつは、その志向のせいだろう。

以下反転。

たとえば、第六部九章の語り手は、プリーストだ、と断定することはできない。彼はプリーストであり、ナイオールであり、そして主語としての「わたし」でもある。そういう複数のレイヤーがそれぞれの文脈(ナイオールであれば、作中の関係。プリーストであれば、第一部。「わたし」であれば、三人称叙述という欺瞞)を引き連れてそこに存在しているのであり、多義性は収束しない。

訳者あとがきでは、第六部九章の語り手が最初は名指されていた、と書かれている。私の推測ではおそらく「プリースト」と固有名詞が書きこまれていたのではないかと思う。小説としてのふくらみが増した、と訳者は書いているが、それはつまり、そこで固有名詞を名指さないことによって、多義性を消してしまわないようにしたということなのではないだろうか。

第三版でまたかなりの改稿が入っているということらしい。いったいどういう改変がなされたのか気になる。

そういえば、三回登場する手紙は、この小説で一番謎めいているものかも知れない。
誤認があるか知れないが纏めると、
一回目は南仏旅行時にグレイがスーに出したもの。
二回目は南仏にいるはずのナイオールからイギリスのスーに届く。

二部のグレイの記憶というのは実際にあったことからglamourにまつわる記憶が忘れられているということになっていたと思う。ここで不思議だったのは、ナイオールからスーに出された手紙を、第二部の時点でグレイは知らないはずなのではないか、ということだ。このことについて作中ではフォローされていない。

小説の読者としては、グレイが出した手紙は、本当はナイオールが出していたのか、と思うところだが(一瞬そう思った)、スーの話を信用するなら、グレイは南仏になど行っておらず手紙を出してもいない。glamourにまつわる記憶がないだけでなく、全く存在しない出来事を作り上げている。といえば南仏旅行そのものが架空の出来事だが、手紙の件が変なのは、ナイオールとグレイが同じことをしているという点にある。この、小説の記述として対応している出来事は、小説内現実のなかでは対応しているはずがない出来事である。


そして、第六部の十章において、ガウアズとつきあっているグレイはスーに絵はがきを送る。
第六部九章から十章のあいだに一体何があったのか。ナイオールの存在そのものが小説内現実から消滅したのか。三人称叙述の語り手であることをみずから明かした(一体誰に?)「わたし」は十章を書いてもいるはずであり、だとするならここの記述は何を意味するのか。

三つの絵はがきは、すべてスーに、Xから送られている。これ自体が、作者と読者の関係の比喩なのかも知れない。が、それだけではないだろうし、ここにはある種のトラップ、トリックがあると思う。

気になるのは、第六部九章の末尾の一文。「忘れるということは、見られないということの別の形であるからだ」とある。この“見られない”とは、can't seeのことだろう(be not seenの可能性もある)。九章で「わたし」はフィクションから解放して、グレイを現実の生活に送り返すと言っている。そして、君は二度とスーを見ることはないだろうと言ってもいる。だとするなら、十章ではグレイはスーのことなど一度も思い出さないというのが順当なところのはずだが、スーに「きみがここにいればいいのに」と書いて送る。ここにいるとしても見ることができないcan't seeはずで、だとするならこの手紙は無意味であり(そこにいても見えない)、そもそも、何処に送ろうとしているのか。そして、これは一体どういうことなのか。

三回目の手紙はそれまでに出てきた二度の手紙を想起せよ、という書き手の示唆なのかだろうか。だとすれば、この三つの手紙には何らかの対応関係があるはずだ。

しかし、ここらへんのくだりは非常に謎めいていて整合性のある推論が浮かばない。
以上。

●買った本

ブックオフに行ったら、ちくま文庫の「定本 二笑亭綺譚」があった。服部正アウトサイダー・アート」で紹介されていて、探してみたら五六千円の値が付いていた本だった。カルヴィーノのハヤカワ文庫版「レ・コスミコミケ」が百円だったときも驚いたが、掘り出し物はある時にはあるものだ。そういえば、ジーン・ウルフの「新しい太陽の書」の二巻だかが百円だった。私は買わなかったが、結構レアな本のはずだ。

あと、近場の古書店講談社版世界文学全集の「フロオベエル ボヴァリイ夫人 三つの物語 十一月」を三百円で買う。フロベールはいつか読みたいと思っているが、岩波や新潮と各種文庫のどれがいいのか判断つかなかったので買わなかったのだけれど、珍しい中村光夫蓮實重彦訳で三百円、有名な短篇も入っているので、入手。講談社文庫って結構昔はいろいろな古典的文学作品、スタンダールとかバルザックとかディケンズとかを他とは違う訳で出していたみたいだけど、この全集はその親本だろう。中村光夫訳ボヴァリイ夫人も文庫で出ていたようだ。
いつ読むことになるのやら。

中身を見ると、「ボヴァリイ夫人」を訳しているのは中村光夫だけれど、「三つの物語」と「十一月」は蓮實重彦訳。この本では蓮實重彦がずっと蓮実重彦となっている。文句を言わなかったのだろうか。

あと、「火星年代記」と「火星夜想曲」、「カルパチアの城」「眠る石」とか。