「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

メモ 最近読んだ本

イタロ・カルヴィーノ「遠ざかる家」松籟社

遠ざかる家―建築投機 (イタリア叢書 3)

遠ざかる家―建築投機 (イタリア叢書 3)

カルヴィーノのリアリズム風中篇。原題を直訳すると「建築投機」となり、タイトル通り土地を売ってそこにアパートを建てようとするのだけれど、主人公一家と契約する土建屋が、いつまでたっても仕事を進めないため、主人公と弟や母たちが困ったり、怒ったりする話。というと単純だけれど。ただ、時代が非常に具体的に設定されていて、戦争を経たあとの人々の変質、というか町の変貌が描かれる。主人公はもともと左翼団体に属していたが、戦後イデオロギーの夢を失い、いま微妙なスタンスに立たされている。その彼の屈託といつまでも完成しない建築投機とが、一種の寓意として重ねられているのだろうか。地味な話で目立つ作品ではないけれど面白い。

宮本みち子「若者が《社会的弱者》に転落する」洋泉社新書

若者が『社会的弱者』に転落する (新書y)

若者が『社会的弱者』に転落する (新書y)

最近のフリーター増加などの問題を、きちんと統計的資料を用いて、そして海外の教育、家族制度などとちゃんと比較して、できるかぎりイメージに流されず、心理的な問題に還元しないことを旨として論じている本。「若者」問題はつねに世代論や「いまの若者はなっていない(そして、自分たちの時代はちゃんとしていた)」式のくだらない精神論に陥る可能性を持っているが、この本はそうではない。若者が働かない、働けない状況を、きちんと社会的問題、つまり、いまの大人の側の問題として捉え、制度、政策的対策を提言している。
この本の基本的なスタンスは、欧米諸国においては顕在化していて、すでに政策的対象として捉えられている若者の社会的弱者への転落は、日本では精神論や心理主義的な解釈だけが横行し、いまだまともな政策がとられていないという現状把握である。やれ、自衛隊に入れだとか、怠けているだとか、税金も払わないやつは生かしておけないというような、知性も品性も少しの思慮も感じられないゴミのような言説がまかり通ってしまう現況にあって、パウロ・マッツァリーノ「反社会学講座」などとともに貴重な本。

後藤和智事務所 −若者報道と社会−
若者報道の歪みを延々と指弾し続ける後藤和智氏のページ。若者論、という言論に特に注目し、執拗な批判を続ける持続力は貴重。bk1の書評やブログを見ていて、結構年のいった人かと思っていたら、むしろ年下で八十年代生まれと知り、驚く。そういや、ブログでは延々声優のことについて語っていて、変な人だな(若者報道論と声優の話題がなんのエクスキューズもなしに並んでいる)と思ってたけれど、同世代だったとは。


服部正アウトサイダー・アート集英社新書

アウトサイダー・アート (光文社新書)

アウトサイダー・アート (光文社新書)

タイトルを見てピンと来て、目次を拾ってみたらフェルディナン・シュヴァルのことに触れていたので、早速買った。予想通り、変なものを作ったり描いたりした人がたくさん紹介されている。変な、とはいったけれど彼らを変人扱いして自分と隔離したい訳ではない。彼・彼女らから感じる異様な迫力は、とりあえず「変」としかいえない。その「変」にこそ私なんかは惹かれる。

シュヴァルは一生かかって石を積んだ奇態な建築物を建てたけれど、それはただ単に趣味だった。対価も、芸術的成功も関係がなかった。ただ、おのれの意志のままに建てた。それでできあがったものは壮絶な建築物だった。誰もがそれを見れば驚くはずだ。「たった一人でこんなものを建てたのか」と。その異様な情熱、持続力はおよそ常人の想像を超えている。奇人変人と呼ばれるゆえんである。しかし私はそういう人間が気になる。私が惹かれるのは、そういうほとんど理解不能なまでの意志の力がいったいどこから来るのか、という謎だ。彼らにはどうしてそんなことができるのか、そして私にはどうしてそれができないのか。そんな謎だ。

何故そんな奇妙なことに時間と労力をかけるのか?
レーモン・ルーセルに私が惹かれているのは、そんな疑問があるからだ。私見だけれど、アウトサイダー・アートの作家たちと、レーモン・ルーセルには似た部分がある。とてもまともには見えないことに異様な情熱を注ぐという点で。ただ、ルーセルは極めて俗で、一生世間的な栄光を求め続けた人であるところは、明確にアウトサイダー・アーティストと一線を画すだろう。しかし、ルーセルの作品を知る人ならわかるとおり、彼の作品は大衆的、世間的人気を博すことができるようなものではまったくないといっていいぐらいに、変なものだった。ヴェルヌにあれほど憧れながら、ヴェルヌのようには書かなかった。そこが異様なところだ。本当に世間的な栄光を求めていたのなら、ヴェルヌのように書けばいい。

ルーセルは狂人扱いされたが、彼の判断力がこと彼自身の文学の「芸術的価値」に関するもの以外はきわめて正常であったことは診察したジャネ博士も証言している。なぜ「芸術的価値」においてのみ、絶大なる自信を持ちうるのか。あれほどまでに奇妙で実験的な作品を、大衆的な栄光を得ることができる作品だと思えたのか。この判断力の奇妙なエアポケットの存在は、とても不気味だ。
ただ、彼の判断力はどうあれ、ルーセルはおそらくあのようにしか書けなかった。彼にとって文学がいったい何だったのかわからないが、彼にはあのようにしか書けなかった。

この、普通の文学的、芸術的価値に収まらない、そのように「しか書けない」というあり方は、アウトサイダー・アートの作家にも感じるもので、私がルーセルに感じるものもそれだ。その点できわめて興味深い本だった。

本自体は「アウトサイダー・アート」の歴史的経緯と、現代美術のアウトサイドとしての意味、多様なアウトサイダー・アートの作家たちの紹介と、とても丁寧に構成された本だ。ことに日本のアウトサイダー・アートの紹介にページを割いていて、ヘンリー・ダーガーの名前ばかり聞こえてきていた私にはとても新鮮だった。とくに、奇怪な建築「二笑亭」には興味を惹かれる。
これに興味を持つ人は、ぜひ岡谷公二氏の「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」も読んでみて欲しい。

二笑亭についての簡潔な紹介


斎藤環「文学の徴候」文藝春秋

文学の徴候

文学の徴候

文學界」に連載されていたのを拾い読みしていて、その時はこれは面白い、単行本になったら買おうと思っていた。で、出たのを読んだわけだけれど、読めば読むほど物足りない本だった。確かに、大江健三郎古井由吉などと一緒に、佐藤友哉滝本竜彦舞城王太郎なんかを論じるという氏ならではのアプローチは魅力だろうし、島田雅彦天皇萌えと呼び、島田が書きたかったのは皇太子の「やおい」小説ではないか、などと指摘してみせるパフォーマティヴ(?)な部分は愉快でもあるのだけれど、全体として面白くはなかった。退屈だと言ってもいい。

この本の退屈さの一例としては、たとえば 古井由吉の「杳子」を引きつつ「このように精緻きわまりない狂気の基底的描写を、私は他のいかなる小説でも目にしたことがない」と賞賛してみせる場面だ。ここに至るまで斎藤氏はずっと、古井氏の小説の描写が精神病理学的な狂気を正確に「取材」もなしに書き得ていることに驚いて見せているのである。精神病理学的に正確?

そんなことはどうでもいい。確かにそんな指摘にはいくらかの含蓄もあり、精神科医を営む斎藤氏にしてみれば価値のあることなのかも知れないが、こと私などが古井由吉の小説を読むときには上記のような分析はまったくどうでもいいことだ。病跡学的な分析、という時点でこういう分析があるのはわかってはいたけれど、それ以上のものがほとんど感じられなかった。各個の分析はなるほど鋭いように見え、ラカンドゥルーズだと引用されて現代思想的には面白いのかも知れないが、たとえば私が古井由吉笙野頼子滝本竜彦らの小説を読んだりそれについて考えたりするときに、この本はほとんど参照しないだろう。私が彼らの小説に感じている面白さについて、何かしら参考にすべき知見がほとんどなかったからだ。

この本からは全篇そういう物足りなさを感じた。
これに限らず、斎藤氏の文章にはしばしばそういった物足りなさがつきまとうように私には思われて仕方がない。たとえば 「戦闘美少女の精神分析」なども、そうした物足りなさがつきまとっていた本だった。オタク的事象にかんして面白い問題提起をしてはいても、なにかどこか上滑りだ。そう感じる理由のひとつとして考えられるのは、結局氏の分析行為というのが、対象をラカン精神分析の枠組みに流し込んでいるだけだということ。もうひとつは、私と斎藤氏とで作品の読み方がまるで異なるということ。本書は作品論ではなく、いままでにどのような批評が行われているかを踏み台にして作家論を述べるという体裁だ。状況論的でこれまでの批評に対する目配せが強く、作品自体への踏み込みは浅い。ほとんど素描。だから、いつになったら具体的に作品を論じてくれるのか、と思いながら読んでいた私にとっては、つねに欲求不満に終わらざるを得ない。相性が悪いんだと思っておこう。

戦闘美少女の精神分析

戦闘美少女の精神分析

この文章をアップする前に、確認のためもう一度二三の章を読み直したが、この印象はより強まった。分析、指摘がほとんど抽象的なレベルに留まっていて、作品との対応をきちんと論述しておらず、空言が転がっている。たとえば佐藤友哉滝本竜彦を論じた章で斎藤氏が確信したという「ひきこもりによる創造性」あるいは「形式の特異性」とは何なのか、その内実がさっぱりわからない。「『ダメな自分』という確固とした自意識から出発する」ことから生まれる「独語的自意識」とはいかなるものか、それがまったく説明されていない。説明されていない、というのは語弊があるかも知れないが、それが作品の内実との関連性もなく述べられているだけなのは説明とは私は考えない。

本書に対する目についた文芸誌での反応はふたつあった。ひとつは「文學界」での渡部直己による 応答、もうひとつは「新潮」での中島一夫による 書評。渡部氏のものは長かったので読んでいないが、中島氏のものは批判的な見地から検討を加えていて面白い。立ち読みしただけだから詳しくは思い出せないが、うなずける部分が多かった。