メモ 最近読んだ本
●イタロ・カルヴィーノ「遠ざかる家」松籟社
- 作者: イタロ・カルヴィーノ,和田忠彦
- 出版社/メーカー: 松籟社
- 発売日: 1985/02
- メディア: 単行本
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- 作者: 宮本みち子
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2002/11
- メディア: 新書
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この本の基本的なスタンスは、欧米諸国においては顕在化していて、すでに政策的対象として捉えられている若者の社会的弱者への転落は、日本では精神論や心理主義的な解釈だけが横行し、いまだまともな政策がとられていないという現状把握である。やれ、自衛隊に入れだとか、怠けているだとか、税金も払わないやつは生かしておけないというような、知性も品性も少しの思慮も感じられないゴミのような言説がまかり通ってしまう現況にあって、パウロ・マッツァリーノ「反社会学講座」などとともに貴重な本。
後藤和智事務所 −若者報道と社会−
若者報道の歪みを延々と指弾し続ける後藤和智氏のページ。若者論、という言論に特に注目し、執拗な批判を続ける持続力は貴重。bk1の書評やブログを見ていて、結構年のいった人かと思っていたら、むしろ年下で八十年代生まれと知り、驚く。そういや、ブログでは延々声優のことについて語っていて、変な人だな(若者報道論と声優の話題がなんのエクスキューズもなしに並んでいる)と思ってたけれど、同世代だったとは。
- 作者: 服部正
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2003/09/17
- メディア: 新書
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シュヴァルは一生かかって石を積んだ奇態な建築物を建てたけれど、それはただ単に趣味だった。対価も、芸術的成功も関係がなかった。ただ、おのれの意志のままに建てた。それでできあがったものは壮絶な建築物だった。誰もがそれを見れば驚くはずだ。「たった一人でこんなものを建てたのか」と。その異様な情熱、持続力はおよそ常人の想像を超えている。奇人変人と呼ばれるゆえんである。しかし私はそういう人間が気になる。私が惹かれるのは、そういうほとんど理解不能なまでの意志の力がいったいどこから来るのか、という謎だ。彼らにはどうしてそんなことができるのか、そして私にはどうしてそれができないのか。そんな謎だ。
何故そんな奇妙なことに時間と労力をかけるのか?
レーモン・ルーセルに私が惹かれているのは、そんな疑問があるからだ。私見だけれど、アウトサイダー・アートの作家たちと、レーモン・ルーセルには似た部分がある。とてもまともには見えないことに異様な情熱を注ぐという点で。ただ、ルーセルは極めて俗で、一生世間的な栄光を求め続けた人であるところは、明確にアウトサイダー・アーティストと一線を画すだろう。しかし、ルーセルの作品を知る人ならわかるとおり、彼の作品は大衆的、世間的人気を博すことができるようなものではまったくないといっていいぐらいに、変なものだった。ヴェルヌにあれほど憧れながら、ヴェルヌのようには書かなかった。そこが異様なところだ。本当に世間的な栄光を求めていたのなら、ヴェルヌのように書けばいい。
ルーセルは狂人扱いされたが、彼の判断力がこと彼自身の文学の「芸術的価値」に関するもの以外はきわめて正常であったことは診察したジャネ博士も証言している。なぜ「芸術的価値」においてのみ、絶大なる自信を持ちうるのか。あれほどまでに奇妙で実験的な作品を、大衆的な栄光を得ることができる作品だと思えたのか。この判断力の奇妙なエアポケットの存在は、とても不気味だ。
ただ、彼の判断力はどうあれ、ルーセルはおそらくあのようにしか書けなかった。彼にとって文学がいったい何だったのかわからないが、彼にはあのようにしか書けなかった。
この、普通の文学的、芸術的価値に収まらない、そのように「しか書けない」というあり方は、アウトサイダー・アートの作家にも感じるもので、私がルーセルに感じるものもそれだ。その点できわめて興味深い本だった。
本自体は「アウトサイダー・アート」の歴史的経緯と、現代美術のアウトサイドとしての意味、多様なアウトサイダー・アートの作家たちの紹介と、とても丁寧に構成された本だ。ことに日本のアウトサイダー・アートの紹介にページを割いていて、ヘンリー・ダーガーの名前ばかり聞こえてきていた私にはとても新鮮だった。とくに、奇怪な建築「二笑亭」には興味を惹かれる。
これに興味を持つ人は、ぜひ岡谷公二氏の「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」も読んでみて欲しい。
- 作者: 斎藤環
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2004/11/06
- メディア: 単行本
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この本の退屈さの一例としては、たとえば 古井由吉の「杳子」を引きつつ「このように精緻きわまりない狂気の基底的描写を、私は他のいかなる小説でも目にしたことがない」と賞賛してみせる場面だ。ここに至るまで斎藤氏はずっと、古井氏の小説の描写が精神病理学的な狂気を正確に「取材」もなしに書き得ていることに驚いて見せているのである。精神病理学的に正確?
そんなことはどうでもいい。確かにそんな指摘にはいくらかの含蓄もあり、精神科医を営む斎藤氏にしてみれば価値のあることなのかも知れないが、こと私などが古井由吉の小説を読むときには上記のような分析はまったくどうでもいいことだ。病跡学的な分析、という時点でこういう分析があるのはわかってはいたけれど、それ以上のものがほとんど感じられなかった。各個の分析はなるほど鋭いように見え、ラカンだドゥルーズだと引用されて現代思想的には面白いのかも知れないが、たとえば私が古井由吉や笙野頼子、滝本竜彦らの小説を読んだりそれについて考えたりするときに、この本はほとんど参照しないだろう。私が彼らの小説に感じている面白さについて、何かしら参考にすべき知見がほとんどなかったからだ。
この本からは全篇そういう物足りなさを感じた。
これに限らず、斎藤氏の文章にはしばしばそういった物足りなさがつきまとうように私には思われて仕方がない。たとえば 「戦闘美少女の精神分析」なども、そうした物足りなさがつきまとっていた本だった。オタク的事象にかんして面白い問題提起をしてはいても、なにかどこか上滑りだ。そう感じる理由のひとつとして考えられるのは、結局氏の分析行為というのが、対象をラカン派精神分析の枠組みに流し込んでいるだけだということ。もうひとつは、私と斎藤氏とで作品の読み方がまるで異なるということ。本書は作品論ではなく、いままでにどのような批評が行われているかを踏み台にして作家論を述べるという体裁だ。状況論的でこれまでの批評に対する目配せが強く、作品自体への踏み込みは浅い。ほとんど素描。だから、いつになったら具体的に作品を論じてくれるのか、と思いながら読んでいた私にとっては、つねに欲求不満に終わらざるを得ない。相性が悪いんだと思っておこう。
- 作者: 斎藤環
- 出版社/メーカー: 太田出版
- 発売日: 2000/04
- メディア: 単行本
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本書に対する目についた文芸誌での反応はふたつあった。ひとつは「文學界」での渡部直己による 応答、もうひとつは「新潮」での中島一夫による 書評。渡部氏のものは長かったので読んでいないが、中島氏のものは批判的な見地から検討を加えていて面白い。立ち読みしただけだから詳しくは思い出せないが、うなずける部分が多かった。