「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

「野川」の書評について補足

「情況」は新号が出ていて、「暴力の哲学」特集を買い逃してしまった。うーん。
情況出版のウェブサイトは更新が半年以上止まっているし。そうまでして買うに足る
内容かどうかもわからないし、ちょっと保留か。

ところで、古井由吉「野川」は売れ行きも含めて結構好評なようで、今更ながらbk1レビュアーの方のブログなどをめぐっていたら、pipi姫さんが「野川」に書いた私の書評を好評してくれていた。

この記事は直接には、同じくレビュアーのソネアキラさんのこのエントリへの応答でもある。

ここに「ただこういう作品にひかれるのは、それだけトシとったってことかもしれない」と書かれていて、二十歳くらいから古井を読み始めた私はいったい、などと思ってしまったりもする。
ソネアキラさんのレビュー。

改めてここで「野川」を取り上げたのは、bk1に書評を投稿するときに、文字数の都合で削ってしまった記述を思い出したから。

私が投稿したレビューでは、終わりの方に高橋源一郎の日記からの記述を引用して、氏の「戦争小説」という指摘について書いた。ここで引用したのはこのエントリである。

この「野川」評には同意するところも、示唆的なところも、またあまり同意しないところもある(作品外の高橋自身の考えに引きつけすぎているように思える)。
そして、ここには一つ致命的な間違いがある。冒頭で高橋氏は

この小説に登場するのは、主人公の「私」を筆頭に、友人の「井斐」も、「内山」も「死」にとらわれていることだ。実際に、「井斐」も「内山」も、「定年」を過ぎた頃に死んでしまうのである。
と書いているのだけれど、「野川」を読んだ人ならまずわかるとおり、「内山」は死んではいない。最終章の冒頭では、「内山」が死んだという“間違った情報”が伝えられるだけだ。普通に読み通せば、これは読み落とさないはずだ。
はじめこのエントリを読んだときは自分の読みが浅かったのか、と思ったのだけれど、やはり「内山」が死んだという記述は最終章にしかなく、それはすぐに否定されるものとして書かれている。普通に読めばそうとしか思えない。

高橋氏の上記引用を読むと、氏はきちんと通読していないのではないかと疑われる。まあ、そうでなくとも氏の書評にはアジテーションじみたところが多く、そして内容に即して論証しないという傾向があったように感じてはいたのだけれど。「invitation」に書いたという書評はどんな内容だったのだろうか。

そういえば、上にソネアキラさんのレビューをリンクしたけれども、そこでソネアキラさんは、
これまでの作品と違って、すらすら読める、と書いている。

ソネアキラさんがどれに挫折したのかはわからないけれども、ここ数年の古井由吉の文章は柔らかくなった、と本人がいっていたらしい。それは、ここ何年かずっと定期的に朗読会というのをやっていて、自分の文章を人の前で朗読するようになって、それが文体に反映した、ということらしい。

私も何度か朗読会には参加したことがあり、古井由吉自身の声でその文章を聞いたことがある。氏の朗読は、ともすれば朗読されていることを忘れるほど自然で、声がすうっと入り込んでくる気持ちよさがある。そして、聞いていると驚くほど自然に聞くことができ、複雑な時間移動や話法の入れ子構造などが喧伝される氏の小説を、抵抗なく追っていくことができる。

それが、氏の最近の文章に反映されたのだろうか。いまも「新潮」に連作を連載中。まだ四作くらいなので本になるのは相当先になってしまう。かといっていまから連載を追うのも、なあ。