「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

「群像」の「『ドン・キホーテ』私註」

本屋を軽くめぐる。高い本を買う金はないので、文庫をちょっと買って、あとは見るだけ。

まず笙野頼子の「金毘羅」を手に取ってみる。いつものミルキィ・イソベの装丁で、格好いい。「太陽の巫女」の装丁を下敷きにしているとおぼしき太陽のマークが見える。しかし、まだ積んでいる四冊から読まなくては。

あと、ついにスタニスワフ・レムの新訳「ソラリス」が出ていた。シンプルな装丁で、何かを思い出すのだけれど、何かはよくわからない。読む暇もないので手に取ってみるだけにしたが、続刊はちゃんと出るのだろうか。評論や短篇も読んでみたいので、そっちの方が気になる(そういえば、牛島信明の逝去で中断しているボルヘスコレクションはどうなっているんだか)。

本当は酒井隆史「暴力の哲学」特集をしているらしい「情況」という雑誌を探していたのだけれど、売り切れ、と店員に言われてしまった。売り切れることもあるんだな、と代わりというわけではないけれど、「群像」を買って帰った。

とりあえず「群像」では室井光広「『ドン・キホーテ』私註」を読んだ。とても懐かしい空気を感じた。
室井氏は入院したときに、ルネサンス三巨匠と自ら考える、シェイクスピアラブレーセルバンテスの書を紐解いたらしいのだけれど、そのうち、セルバンテスがもっとも自らを癒してくれた、と書いている。そしてこの文章は、氏が楽しく読んだ、その「ドン・キホーテ」へのささやかな私註として書かれている。

懐かしいというのは、私も「ドン・キホーテ」を読んだときに、つい思いあまって三十枚くらいこんな私註を書いた覚えがあるからだ(もちろん、こんな、というのは質の問題ではない。それに、室井氏の文章はたぶん100枚以上ある)。「ドン・キホーテ」は面白い、しかし、この面白さはあまり知られていないぞ、と思い立ち、室井氏が冒頭にボルヘスを引いているように、私もボルヘスの「名声はすなわち無理解、それもおそらく最悪の無理解なのだ」という文章を枕にして書き出した。その文章は今見てみるとかなり拙いものだが、室井氏の文章を駆動している「ドン・キホーテ」の存在が肌に感じられて、とても懐かしい空気とともに読めるのだった。またそこで顔を出す幾つもの名前、ボルヘスバフチンナボコフフエンテスフーコー、パスなどなどは、セルバンテスをめぐる本を渉猟していたときに、私も遭遇した名前たちだ。

バフチンはまとまったセルバンテス論こそ書いてはいないが、至る所、重要なところでセルバンテス、「ドン・キホーテ」の名前が出て来、興味深く読んでいた。ナボコフの「ドン・キホーテ講義」は買ってはあるものの、いまだ読み切ってはいなかったりする。フエンテスの「セルバンテス または読みの批判」は文化状況、社会状況にかんする歴史的記述が歴史に弱い私には頭に入りづらかったが、それでもとても面白い。パスもフエンテスも、たしか、それまでの叙事詩から、近代小説に移り変わる時期の作品として「ドン・キホーテ」を取り上げて論じており、近代小説の祖としての「ドン・キホーテ」という評価はどこから来るのかを調べていた当時の私にはとてもいい参考資料だった。

話を戻す。室井氏はセルバンテスの文章の特質として、「寛容さ」を挙げている。ラブレーシェイクスピアでは、こうはいかない。ラブレーは読んでいないが、排泄にまつわる記述の多さなどは例示されていて、セルバンテスの上品さと対照的なものとして書かれている。シェイクスピアもまた、その作品世界の死の扱いやシビアさは、セルバンテスには見られない。たぶん、室井氏が書いているとおり、「ドン・キホーテ」で死ぬのは、実在の盗賊の所業を除けば、ドン・キホーテその人だけなのではないか。その穏やかで哀しい死! サンチョ・パンサは死の床のキホーテに向かって、もう一度旅に出よう、と繰り返すが、正気のキホーテは、優しく彼をたしなめる。そして死んでいくのである。

この小説、後藤明生がつねに主張していた小説のスローガンを、かなり理想的な形で実現した作品に見える、というか、後藤明生はここから氏の文学論を立ち上げたんではないかと思われるほど、氏の文学論そのままだ。

ドン・キホーテ」という小説は、楽しく面白く興味深く愉快で哀しく滑稽な小説だ。読んでない人は、かならず読むこと!