「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

後藤明生「壁の中」・4

近代文学の分裂

この小説(というより後藤明生)が一貫して喚起しようとしているのは、日本近代が「分裂」であったということである。ロシア文学それもドストエフスキーを特に持ち出して示そうとしているのは、ロシアの知識人がヨーロッパの知識を吸収したためにロシア的なモノから切り離されてしまった、バラバラな人間であったという認識である。
日本もまた、近代文学のはじまりにおいて、西洋と日本とのあいだに引き裂かれていたというのが、後藤明生の年来の論である。二葉亭四迷ロシア文学の翻訳をし、「浮雲」ではドストエフスキーゴンチャロフなどのロシア作家の文体、構成を踏襲している。漱石は英国、鴎外はドイツと、明治の錚々たる顔ぶれが、外国文学との密接な関係の元にその文学を立ち上げているというのは、すでに文学史的常識に属するだろう。

そして、その文脈に上記の荷風の姿を接続する。前半で執拗に追っていたドストエフスキー「地下生活者の手記」の主人公の姿に荷風を重ね合わせ、彼ら(地下室人も、漱石も鴎外も二葉亭も正宗白鳥も!)は近代という時代のなかで、西洋と日本とのあいだで引き裂かれたバラバラ人間だったのだ、と正宗白鳥の分類を用いて「総括」する。一応、これが「壁の中」という作品の「結末」である。ラスト数ページの展開である。

そうやって作中での議論を落とし所に落とし込んで、小説としては一応の終わりを迎えることになる。ただ、このラスト、いかにもとってつけた風である。というか、正宗白鳥が出て来たあたりからの展開はそれまでとはちがい、俄然急展開の様相を呈する。その後半五十ページくらいで西洋と日本との関係にまとまりをつけ、一気に総括してしまう。とってつけたような終わりといったが、脱線に脱線を重ねている小説のなかで、まともに結末をつけようとすればおそらく、どうやってもとってつけた風にならざるをえないのだろう。むしろ、この終わり方はこの小説がいつ終わってもいい作品、またはいつまでも終わらない小説であることを露わにしているのだと思う。

上記の「結末」にしても、これが果たして「結論」と呼べるかどうか。むしろ、これが出発点そのものではないか。「壁の中」の書き方とは、とりあえず上記のような結末=テーマを把持しつつ、それをいかに脱線し、迂回し、細部を浮かび上がらせるかということに賭けられてはいないか。上記のような結末くらい、後藤明生はエッセイのなかで何度も繰り返しており、読者としては耳にタコである。そして、それでも後藤明生の小説が面白いのは、それが小説として奇妙な運動を持っているからではないか。バラバラ人間をテーマにしたことは、「壁の中」というタイトルに率直に示されてもいる。これは「地下室」の読み替えであり、つまりは現代の言い換えでもある。バラバラ人間たる先祖を持つ昭和現代人はことごとく、そのバラバラを受け継いでおり、そのバラバラがもはやもう単純な西洋と日本という対立軸では捉えきれないほど分裂してしまったこと、それが「壁の中」というタイトルに示されている。


●方法論?

「壁の中」の構成は、現代という時代(全共闘の終焉を意識している)におけるバラバラ人間(語り手の三カ所の家)のあり方を、後藤明生式の日常描写で描き、ドストエフスキー「悪霊」や聖書などにおける「父と子」の関係を昭和現代人と明治人荷風との関係にスライドさせて形づくられている。

この小説はこのスライド、関係の変奏、脱線の仕方、連繋の異様なふくらみによって支えられている。たとえば本作の「意図」つまり、上記のごとき「日本近代文学の分裂」というようなテーマを、論文にして纏めることはそれほど難しくはないだろう。むしろ、作中の言葉を適宜拾えばそれなりのまとまりはできるだろうと思う。

しかし、この小説のもっとちがった企み、または読者つまり私がこれを面白いと思う理由はいったい何か、を問い始めると途端に難しくなる。テーマはむしろ簡潔である。では作品のこの異様な迷宮性は何か?

それをたとえば主題の単一性に小説を従属させないため、つまり、物語に単一の寓意、教訓を読みとるような単純化をできうる限り避けるため、というような説明も可能だろう。先日なくなった種村季弘氏が「笑い地獄」文庫版の解説に書いているように、後藤明生がロマン派的な作家(太宰、壇、牧野)に“逆接”していることは確かだ。「壁の中」の永井荷風もその逆接の素材として現れていると思う。後藤明生のパロディの仕方というのは、およそつねにそういった契機を持っている。自身が軍国少年であったことを回想しつつ、それを距離をとって眺めて滑稽なものとして描き出そうとする初期の傑作群(笑い地獄、挾み撃ち等)がそうであるように、ロマン的な視点をあえて措定し、それを客観視するという構造がよく用いられる。後藤明生の言い方でいえば、それが「楕円」の世界である。そして後藤明生はその楕円を構成するために、自身が良く批判する当の「円」を片方に付置するのではないか。

それを小説の方法論として用いると、「壁の中」になる。つまりこうだ。ある簡潔なテーマを立てておいて、それを横目に見ながら縦横無尽に飛び回る。棒にくくりつけられた羽虫みたいに飛び回る。その軌跡が「壁の中」という小説となる。ここでその棒とは、ロシアとスラブの分裂に悩まされたドストエフスキーと、そのドストエフスキーを読み日本と西洋とに引き裂かれた二葉亭にはじまる日本近代文学という問題を具体化した、語り手が起居している病院ビルの九階である。この九階をメインにしつつ、語り手は色んなところに飛び回る。大学、家、愛人の家、聖書を買いに銀座まで。そしてこの九階で永井荷風と対話する。

小説は単なる後藤明生のテーマの敷衍でもなく、絵解きでもない。論文でもないし、エッセイでもない。形式も文体も構成も違えながらいかにバラバラなものを抱え込むかという試みにも見える後藤明生の小説は、そうやってある種の単一性に回収されることに抗っていたといえる。

ただ、しかし、本当にそう要約してしまって良いものだろうか。単一性に回収されることへの抵抗、という言葉で後藤明生の脱線を説明できるものだろうか。それこそ安易な単純化だろう。後期の後藤明生の小説については、もうちょっと違う見方もあるのだが、まだ考えなくてはならない。