「壁の中」から

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スティーブン・ミルハウザー「エドウィン・マルハウス」

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死

デビュー作にして代表作である本書だが、はっきり言ってミルハウザー初読者には薦められないと思う。細かい字組で四百ページ、原稿用紙にして千枚近いのではないかと思われる長めの長篇であるが、この本のなかで執拗に描かれるのは子供時代の些末なエピソードの膨大な集積である。

めくるめく波乱の物語でもなければ、読みやすい文章でドンドン先に進んでいくスピーディな本でもない。ひとつひとつのエピソード、風景、ディティールをおろそかにすることのない異様なこだわりが、きわめて密度の高い小説空間を構築していく。このやり方についていくのには、なかなか労力がいる。

そこで描かれる世界というのが、ミルハウザー作品に多く見られるように、見る者の想像力によって歪められている。夢を追い、何かを作りだすことに執念を燃やすミルハウザーが描く人物は、その凶暴なまでの想像力によって現実を浸食するまでになってしまうことも多い。柴田元幸が言うように、ミルハウザー作品のなかでは、想像力がとても甘美な意味合いを持つのと同時に、「呪い」または「罰」のようにも機能していく。

この作品もまた、その想像力の両面性を大きなモチーフとしている。それは伝記という形式の持つ機能にかかわる。

この小説は十一歳で没したエドウィン・マルハウスという少年の伝記を、その友人のジェフリー・カートライトが書いた、という贋の伝記形式で書かれている。ここで描かれる天才作家マルハウスを、当の天才に仕立て上げたのがこのジェフリーというマルハウスより少しだけ年上の少年で、彼は始終マルハウスと行動をともにしながら、綿密な観察と優れた記憶力で伝記の素材を蓄積していく。

このジェフリー少年が曲者で、つねに自分が優秀な存在であること、それもマルハウスよりも優秀なのだということをさりげなく示そうとする。ここに一つの逆転があって、天才は伝記作家が作りだすものだとジェフリーは考えるのだ。つまり、伝記とは現実を追いかけるのではなく、「偉大な人間」という現実を捏造するものであるということだ。

世界を見る眼差しが、世界そのものを歪めはじめ、次第に作中の現実が溶け出していくように淡く、曖昧になっていく。そんな展開がミルハウザー作品にはよく見られる。「エドウィン・マルハウス」でも、読んでいるとマルハウス自身はそれほど優れた芸術家のようには見えず(十歳くらいなんだから当然だが、それにしても、である)、どこにでもいる普通の少年に思えてくる。それを類い希なる芸術家として描き出していく、ジェフリー・カートライトという少年の方にこそ、何か危ういモノが潜んでいるようにだんだんと思えてくる。

それを悪意といってもいいかも知れない。この悪意が「エドウィン・マルハウス」という小説の基調低音となり、子供時代を濃密に再構築し、至福の空間を演出するかに見える本作に、独特の緊張感を与えている。そして驚きのラストでは、想像力の甘美さと呪いという両面性が皮肉な形で現れてくるのだ。

この作品はミルハウザー作品のなかでは幻想性が薄いが、伝記という形式の嘘くささが充満していて面白い。想像力がやはりミルハウザーの最も重要なモチーフに思えるが、幻想も伝記も、そのモチーフをいかに生かすべきか、という考えのなかで生まれた手法なのだろう。