「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

隠蔽イデオロギーの逆説――青木秀男編著「場所をあけろ!」

場所をあけろ!―寄せ場・ホームレスの社会学

場所をあけろ!―寄せ場・ホームレスの社会学

この本は副題に掲げられたとおり、野宿者問題と寄せ場とをつらぬく、流動労働層における問題を背景にした論文集になっていて、野宿者だけに限定されないより広い視点から書かれている。野宿者問題は、根本的に就労問題だと生田武志が指摘しているように、産業構造の推移と密接に関連しているため、日雇労働者が起居する寄せ場との関係は無視できない。いま現在、その比率は変化してきていると言うが、寄せ場での仕事を失った人たちが野宿者化するというプロセスはいぜん主要なルートだろう。

●問題の隠蔽がもたらす逆説

とりあえず本書から私が理解したことを素描すると、高度経済成長期に、定時に定量の仕事があるわけではない建設業や港湾・陸上運送業などの臨時の労働力をプールする場として機能してきた寄せ場、ドヤ街(簡易宿泊所街)は、70年代初頭オイルショックによる不況のあおりを喰らい、大量の野宿者を生み出すことになる(野宿者襲撃が目立ってきたのは75年から。つまり、その頃から野宿者が目立ってきたということだろう)。その後八十年代に再度活性化するものの、バブル崩壊とともに寄せ場が失業者を受け止めることができなくなり、野宿者化するものが増加し、いまに至る。具体的に引用すると、

バブル経済崩壊以降、日本の大都市全体で、野宿者の数が急増しているということについては、以下のように捉えるのが妥当であると考える。
 第一に、不況による寄せ場日雇労働者のアブレ層(失業層)の増加である。新宿ダンボールハウスでも、主要な野宿者(六割程度とされている)は、現役の日雇労働者と元日雇労働者であった人々である。
 第二に、日本の労働市場において、高度経済成長期まで「雇用調整のためのクッション」の役割を担ってきた日雇労働力供給基地としての寄せ場が、その機能を弱化させてきたということである。寄せ場という闇の労働市場は、日本の労働市場において、正規の雇用システムから排除された失業者を直接に野宿者という形で顕在化させない受け皿としての役割を担ってきた。つまり、この受け皿が狭くなって、溢れ出た人々を入り込めなかった人々によって、野宿者の急増が起こっているのである。
(中略)
 第三に、日雇労働者が利用していたドヤ(引用者註 簡易宿泊施設)や簡易アパートあるいは簡易旅館などが、近年の都市再開発によって、都市空間から減少してきたことである。
8687P
となる。さらに野宿者問題が一般に社会問題化したことにはもう一つの要因がある。それは、主に行政による公共空間からの野宿者の締め出し政策だ。

過防備都市 (中公新書ラクレ)

過防備都市 (中公新書ラクレ)

五十嵐太郎「過防備都市」でも数々の写真とともに示されているように、近年、公園のベンチや階段の下などの野宿者が寝ることができそうな場所で、あからさまにそれを妨害しようとする奇怪な建造物が増えている。これなど、ある種の対症療法でしかないのだが、逆にそういった処置によって、野宿者を可視化させることに貢献している逆説的な状態がある。野宿者排除の設備が野宿できる場所を狭めたことと、野宿者襲撃に抵抗するために人気の多い場所に集中しすることで、野宿者の可視化がすすむ。

野宿者問題とはそういった意味で、問題化しているということを否定しようという行政、住民共通の身振りがさらなる問題化を引き起こすという、悪循環の道をたどっていると言えるかも知れない。それは本書でも指摘されている、自分の属している価値観への違和となりうるものへの否認の身振りであり、それが差別、偏見そして襲撃という形での排除の意志の具体化へとつながっていく。


●極限状況での排除

そうした排除は非日常の場面でも現われる。

震災直後の神戸市では、市内各地の避難所や公園において、「ホームレス(野宿者)らしい風貌の人」「罹災証明を持っていない人」「外国人」などに対して、避難所や避難していた公園等から追い出す、もしくは救援物資を渡さないということが、行政やボランティア、そして「被災者」によって行なわれていた。「もともと路上生活していた人だから、物資は配らなくていい」「ああいう人たちは自分たちとは違うから、同じように扱わんでくれ」「うちの避難所にはホームレスがいないのが自慢や」といった言葉が、「被災者」自身やボランティアから聞かされ、さらには「救援物資を求めて、たくさんの浮浪者が大阪から来ている」というデマが流布された。
130P
ホームレスや外国人の排除が生命にかかわる非常事態である震災直後に行なわれていたという。それも、行政、被災者双方の積極的働きかけによってだ(野宿者排除の心性は両者に充分に共有されている)。震災直後ということは通常の日雇労働などあるはずがないだろうし、食料の調達も相当に困難になっていたはずだ。被災者という点では変わらないはずなのに、この奇妙な村社会的排除の構図はどんなときでも、むしろ緊急時において現われると言うことだろうか。事実「救援物資も貰えずに避難所のすぐそばで餓死した野宿者もいた」とある。日常生活においては顕在化しない、異者排除のグロテスクさが露わになったかたちだ。

ところで、野宿者とともに外国人まで排斥されたのはいかなる理由に拠るのか? 私は関東大震災のときの朝鮮人などの虐殺の例を思い出すのだが。
参考:関東大震災

被災者らによる野宿者排除の事例を、野宿者、支援者らが教育委員会に伝えたときの反応は興味深い。

支援者A――実際ね。災害対策本部の人は「避難所から出ていけ」と言ってる、野宿者当人は「避難所に居たい」っていっていたのにもかかわらず、結果的に追い出されたんですよ。災害対策本部の人は、「あの人は、震災前から外で寝ていたから、自立してもらったんだ」と言っていたんですよ。
教育委員会B――このたびの震災は、学校現場に限らず、大変な状況でしたね? そこで感じたのは命の尊厳ですね。しかし、須磨区の事件でガーンと崩れました。震災後まで、私自身は長田区の××中学で共闘をしていたんですが、震災で生徒が亡くなったり、保護者の方が亡くなったりしました。そういう中で、生徒たちは、命の尊厳を痛感したと思っていました。友の死をいつまでも忘れてほしくないということを、子どもたちに指導してきたつもりです。(中略)我々は、命の尊厳について指導しています。しかし、我々が必死で指導してきたことが伝わっていない生徒もいるんですよ。
155156P
「命の尊厳」! 非常に不思議なのだけれど、こうしたことを喋る人間は、子供たちが命の尊厳を知らない、あるいは分かっていないと見なしているのだろうか。命の尊厳を十全に伝えることができればさまざまな暴力を解消することができる、と思っているのだろうか。子供たちが殺されたり、殺したりしたりする事件が起きるたびに事件の渦中の学校で決まって繰り返される、内容空疎なお題目の反復。おそらく、話す方も、聞かされる方も、命の尊厳という抽象的な一般論など百も承知のはずだ。そんなことをわざわざ指導されるなんて言うのは屈辱でしかないのではないか。子供が殺された場合はもとより、子供が殺す側に立った事件でも、その子供以外は殺したわけではないのだから。問題は、命の尊厳・大切さが伝わっていないなどというレベルにはないだろう。

「〈野宿者襲撃〉論」の冒頭でも指摘されているとおり、「命の尊厳・大切さ」論は事件の具体的な問題性を隠蔽するための責任逃れの方策として機能しているのではないか。上記交渉の席においても、野宿者たちが排除されたことの具体的な問題――「そういう人間は排除してもいい、という教育をされているんじゃないですか?」という支援者側からの問いを教育委員は回避している(それ以前に話が繋がっていないが)。避難所では野宿者たちを排除してもいいという空気が共有されていたからこそ、彼らは排除されたのではないのか。

そういった問題点をすっとばして「命の尊厳・たいせつさ」論に行き着いてしまうことについては、生田武志も以下のように書いている。

振り返って、かの東村山市の中学校の校長の「いのちの大切さ」という発言は何を意味していたのか。もしかしたら、あの言葉の真意は「(ホームレスといえども)いのちは大切だ」というものではなかったか(ありうる!)。だとすれば、この「いのちの大切さ」という言葉は、じつは確信犯的な差別発言なのである。
17P
これはきわめて鋭い問題提起だと思われる。具体的な問題、関係性を等閑視したうえでの、抽象的なお題目の反復は、最悪な形での現状追認にしかならない。(いじめはいけない、としか言うことができない教師!)


●「資本と国家の論理」

この「場所をあけろ!」という本は、じっさいに野宿者にインタビューした話をまとめたものや、野宿者や支援者による交渉に行政がどう対応したかを書き留めたり、保護、撤去、襲撃にまつわる行政側の対応を論じたもの等々、様々な論文があり、寄せ場・野宿者問題(つまり下層(?)労働者問題)をそれなりにカバーした良書だと思う。合間にあるコラムのページで各寄せ場の来歴や襲撃問題などにも触れていて、基礎的な情報を網羅しようとしている点もよい。それなりに、というとおり基本的に問題提起にとどまっているものがほとんどなので、とっかかりとして読むのが適当だろう。

ただ、本書での基本的な視点は野宿者問題をきわめて政治的な視点から捉えるというもので、資本主義、労働、差別、福祉の不徹底などを問題化する方針に重点が置かれている。たとえばこんな主張。

「周辺」としての寄せ場を、資本と国家の論理と簡潔に関連づけておく。まず、日雇労働者の多くを構成するのは、産業構造の再編やリストラなどによって、企業社会や常時雇用の場から切り捨てられた人たちである。そして、日雇労働者は、常時雇用のリスクを回避するための景気の調節弁として、劣悪な労働条件のもとに、労働力を使い捨てにするという資本の破壊性が最も強度に押し付けられる存在である。なかでも、もっぱら寄せ場を就労とする寄せ場労働者には、日雇ゆえの流動性・移動性のために定まった住居がないものや、経済的困窮による野宿の結果「住所不定」になり、職安に登録できない人が含まれる。こうした寄せ場労働者が悪質な手配師や求人業者の支配や搾取を受けやすい。次に、国家の論理に関しては、国家的保護の施策として、労働行政による失業保険の給付と福祉行政による生活保障の制度がある。しかし、失業保険の給付は職安登録者を対象としており、また、生活に困窮しても「住所不定者」が生活保障を受けとることは極めて困難だという現実がある。「住所不定」の寄せ場労働者は、これらの施策から制度実質的に排除されているのである。さらに、一九八〇年代後半以降、アジアからの出稼ぎ労働者の流入が増大してきたが、かれらの一定部分は寄せ場を経由して底辺的な労働力を担ってきた。在留資格が認められない未登録の「不法」外国人労働者にとって「匿名性」の高い寄せ場は仕事を見つけやすい主要な場のひとつである。しかし、未登録ゆえの「不法性」は法的適用の外部のカテゴリーとして、かれらを法的対象から排除し、あらゆる権利を剥奪するものとして作用する。
5455P
これ自体はきわめて妥当な論だと思うし、それなりに賛同もするのだけれど、こういう視点が文章の硬さに及んでいる面もあって、柔軟さを欠くとは言える。よい本だとは思うが、対立的な視点を持つ本とセットにして読むといいんじゃないかとは思う。そういう本があるかどうかはわからないが。

ちょっと書き忘れたけれども、パオロ・マッツァリーノ反社会学講座「第8回 フリーターのおかげなのです」、フリーターが現在のサービス産業等において安価なサービスを提供するために必要不可欠のものとなっていることが指摘されている。同じように、建設業などにおいては寄せ場労働者、野宿者などの存在もまた重要なものだ。

総務庁統計局「労働力調査」によると、一九九六年(平成八年)の建設業雇用者四九七万人のうち臨時雇用は二四万人、日雇は三〇万人で全体の一〇%を占める。寄せ場はそのような臨時・日雇を始めとする不安定な就労層を背後に持つものと考える必要がある。
50P
サービス産業がフリーターを活用することで成立しているのと同じように、建設業も流動労働層を必要としている。フリーターやホームレスをなんだかんだと批判する人は多いが、そういった人たちの存在によって、彼ら自身の生活が成り立っている側面もあるのだと言うことを忘れてはならないだろう。


●もうひとつの視点

野宿者自身をドキュメンタリー的に追った本としては以下の本が面白かった。

出稼ぎ労働者がそのまま野宿者化する経緯とか、失業者が野宿にいたることなどを、実際の取材によって具体的に知ることができる。ずいぶん前に読んだ本だったのでいまぱらぱら読み返してみたが、この本では野宿者の悲惨さを強調するだけではなく、じっさいに野宿生活しているところに入っていって、野宿生活を通して見える日常的な、一般的な価値観への疑いを捉えるという視点がある。働くことに疲れてそのまま野宿者化してしまう人たちに、過剰適応を強いる労働環境そのものへの疑問を呈するあたりは、自発的野宿者の問題を考える上で重要だろう。そこに、過労かさもなくば失業、というハイリスクの二者択一という問題が露呈していると思う。そういった自発的に日常の社会を降りた人たちは、就労支援をしたところで、すでに捨てた労働環境へ戻ろうとはしないかも知れない。


野宿者自身が発信するブログがあり、これがとても面白い。
「ミッドナイトホームレスブルー」というブログのこの記事など。
「第2市民としてのホームレス」

ほとんどの人が考えているホームレスの自立とは、すなわち第2市民としての自立なのである。

しかしながら、それでもまだ彼らはよいほうだ。好むと好まざるとに関わらず結果として第2市民への道へ進めぬ者たちは、自立の意欲がない落伍者として、もはや容赦なく切り捨てられはじめているからだ。これはもう現場の人間がそうなのだ。

このブログでは支援者や上で私が書いたような労働問題的なフレームで野宿者にかかわろうとすることにまつわる問題が提起されていて「良薬口に苦し」なブログだ。普段あまり目にすることのできない、支援される側、語られる側からの異議申し立てとして、貴重だと思う。

ちょっと過去ログが見にくいので、私もまだそんなに目を通してはいないのだけれど、「非ホームレス」「福祉」カテゴリに面白い記事がある。


●ネットでのいくつかの記事について。

葉っぱ節(栗山光司)さんのブログでの以下の言葉は、重要な視点だと思う。
「僕のスタンスはもしこの世の中にホームレスが一人もいない世の中になったら、そちらの方が怖いと言うことです」
確かに! そのように「浄化」された街はなるほど「清潔」で「快適」なんだろう、「誰か」にとっては。

生田武志さんのサイトの近況欄でネットでの「〈野宿者襲撃〉論」についての反応がクリップされている。
「近況8」
私の文章も読んで頂けたようで、うれしいというか、恥ずかしいというか。

そこで紹介されたものはどれも興味深いものです。特に大澤信亮さんの以下のような読みは重要だと思います。
(ここでは引用しませんが直前で「〈野宿者襲撃〉論」の核心である「善きサマリア人」の話を引いています。是非リンク先で読んでください)

近くにいるから、同じ生活習慣をもっているから、同じ言語を話すから、同じ肌の色をしているから、隣人なのではない。それらを何一つ共有していなかったとしても「隣人」に「なる」ことは可能なのである。
(中略)
それは生田にキリスト教の素養があるからではない。おそらく長年の実践の中では、襲撃する少年たちを憎み、同じ思いを味わわせてやりたいと思った瞬間もあるはずだ。生田はキリスト教的理念を述べているのではない。現実的にそれしかありえないのだ。それは生田が「イス取りゲーム」の比喩を用いつつ、ワークシェアリングや「ビッグイシュー」などの社会的起業をきわめて具体的に語ることからも明らかである。最初に述べたように、生田は理念に駆られて動いているのではなく、路上で人が死んでいく現実を何とかしたいと動いているだけであり、その意味でつねに現実的なのだ。
われわれは「現実的」に誰の「隣人」になりうるのかということ。