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過剰適応の症状としての暴力――「〈野宿者襲撃〉論」生田武志・1

「野宿者襲撃」論

「野宿者襲撃」論

個人的に去年読んだ非小説本のベストは酒井隆史「暴力の哲学」だった。気が早いが今年は生田武志「〈野宿者襲撃〉論」になるかも知れない。(ちょっと読んだ立岩真也の「ALS 不動の身体と息する機械」も有力候補)

以前に生田氏のウェブサイトに掲載されていた前篇を読んだときから続きを待っていたので、ようやく、という感じだ。非常な力作であり、きわめて重要な本だと思う。ぜひともいろんな人に読んでもらいたい(簡略化して新書などで刊行したらいいんじゃないか)。以下に書いていることは当然の事ながら本書全体の一部にしか過ぎない。68年以降の世界状況についてとかはほとんど触れていないし、「憲法対論」しか読んだことのない宮台真司関連の部分は興味がないのでほとんど斜め読みだったりする(そこだけ付箋がど貼ってない)ので、記述に偏りがある。

本書についてはbk1に書評を投稿したけれど、書き足りないのでここに転載し補足する形で本記事を書いていくことにする。

なお、生田武志氏のサイト「LASTDATE」には、ここを読むよりも有用な情報、文章がたくさんあるので、是非そちらも読んで頂きたい。特に、いくらかの部分が本書にも流用されている「口実としての自己責任論」が必読かと。

また、ウィキペディアの「ホームレス」の項はかなり充実しているので一読を(参考文献が列挙してある。「〈野宿者襲撃〉論」には参考文献一覧がついていないので、便利)。


●「野宿者」について

野宿者、ホームレスといって、特に興味も関心もない人は、怠け者であるとか、自分で望んでホームレスになっただとか、リストラされたりして失業したのはそうなる理由があるからだ(自己責任論)、という先入観を抱いていることがある。というか、以上のことは私が実際に年長者から聞かされた話だ。しかし、野宿者とは根本的に「失業問題」であり、「最悪の形での貧困問題」であると著者は指摘する。野宿者になる最も多い理由は失業であり、多くの野宿者は仕事をしたいと思っているという。しかし、さまざまな社会的制度的障壁がそれを阻んでいる。

病気、リストラなどで失業し、収入がたたれ、家賃も払えなくなる時、人は野宿者になる。しかし、一端野宿者になってしまうと、住所のないために職安や生活保護からも門前払いを受け、保険もないので病気の治療もできず、結果一日十時間以上はたらいても千円にもならないような空き缶、段ボール拾いなどの低賃金日雇い労働に従事せざるを得なくなる(それ以外にも炊き出しや教会などが行なう食事の提供などがあるが)。野宿者のほとんどは五十代の男性で、どこか体を悪くしている人だという。そこから生活を維持できるだけの仕事を見つけるのは至難の業だ。

野宿者に一端なってしまえば、そこから元の状態に戻ることはきわめて困難となる。

ここらへんの基本的な前提については中高生むけの教材として用意されたものが生田氏のウェブサイトにあるので、それを参照してほしい。

「いす取りゲーム」と「カフカの階段」の比喩について
野宿者がよく言われるセリフ

で、野宿状態が最終的に野宿者を待っているのは冬期の路上での凍死だ(とbk1にも書いたが、これはちょっと違う。越冬が厳しいのは事実だが、それだけが死因ではないだろう)。大阪市内だけでも年に二百人以上の野宿者が死んでいるという。(後述の本の記載だが、釜が崎での平均寿命は五十九歳だという)

国境なき医師団」は、この大阪の野宿者のデータと海外の難民キャンプのデータを比較して、「日本の野宿者のおかれている医療状況は、難民キャンプのそれのかなり悪い方に相当する」と指摘している。
「〈野宿者襲撃〉論」26P(以下断りなくば同書)
が、ただ野宿者を「悲惨」なだけのものとして表象してしまうのもよくないだろうとは思う。この点は後で取り上げる。


●「野宿者襲撃」

この本が提起する問題は野宿者に対する偏見、差別への批判にとどまるものではない。そもそも少年犯罪は近年減少傾向にあり、さらに日本人の若者が世界でもっとも人を殺さない人間であるいう指摘がある。そんななか、路上で生活している野宿者たちにいやがらせをしたり集団で暴行を加えたり、ガソリンで火をつけたりして、結果殺害に至る事件がいくつも起きているが、その犯人はほとんどの場合十代二十代の少年たちであるという。

(引用者註 どこの国でも普通は十代二十代の人間の殺人がもっとも多いはずなのに、日本では)「九〇年代半ばには、三〇〜五〇代の中年男性の方が二〇代前半の男性よりも殺人者率が高くなってしまった。」しかし、奇妙なことに、野宿者襲撃を行なう者はそのほとんどが若い男性なのだ。野宿者襲撃の容疑者として検挙された者は、その多くが中学生、高校生、そして一〇代の労働者といった年代にある。
8P
世界でもっとも人を殺さない日本の少年たちは野宿者を襲撃している。この事実はいったい何を意味するのか? 前置きが長かったがむしろそれが本書の本題である。

野宿者襲撃を繰り返したS君は、後、大学生の時のインタビューでこう語っている。

「殴ることもそうですけど、殴ることだけではなくて、みんなで殴るのがストレス発散になると思うんですね。テストの点数がどうとか、成績についてどうとか、言われるのが、まあ、ストレスと言えばストレスですね」
(中略)
「でもやっぱり親には反論というか、殴ったりもできないし、それをすると自分にとってもマイナスになるし、それを考えると、ホームレスなら殴られても構わないかなとも思います。無能な人間を、なにもしない人間を駆除する、掃除するって感じになりますけどね」
「(聞き手)むしろ正義感があったってこと?」
「そうですね、正義感、ちょっとかっこいいのかな、裏の仕事屋、裏の正義みたいな」
「何かをしなければ生きる価値ないし、何もしなくてホームレスになったっていうのはほんとに価値がないことだとぼくは思います」
2223P
この本にはこの種の陰惨な発言がいくつか挙げられている。野宿者襲撃にまつわる陰惨さは、こうした野宿者が排除されてしかるべき存在だという、きわめて暴力的な偏見を疑いもなく内面化している人によって行なわれているという事実からきている。上記の発言について著者はいくつか問題点を指摘する。ひとつは、野宿者に対する偏見から来ている部分については啓蒙によって解決すべき問題であるとした上で、もっとやっかいな点がある。

ぼくがこのインタビューを見てまず思ったのは、彼の「何かをしなければ生きる価値がない」というセリフは、むしろ彼自身が学校や家庭でさんざん言われてきたことではなかったか、ということだった。いい成績をとることが、そのまま学校、家庭、友達関係といったあらゆる場面での優位を保証するとすれば、一生懸命勉強して、成績に関して有能な人間であるための努力を続けることを余儀なくされる。そうしなければ、精神的な意味での自分の居場所がなくなるからだ。まさに心理的に「駆除」され「掃除」されることになる。
23P
野宿者襲撃が「正義」だとは! しかし彼の言う「正義」が。社会的競争の中で結果的に下層(とりわけ野宿)に至るのは「自業自得」で。そこへ社会的援助を行なうことは不必要だというものだとすれば、その主張はむしろ世の中でありふれたものではないのか。そして、社会的マジョリティが傍観にまかせて、あるいは公園の「整備」とか町内の「環境保全」とかいった理由をつけて野宿者を「駆除」し「掃除」しているところを、襲撃する若者たちは、直接暴力に訴えて「駆除」し「掃除」しているだけなのではないか。
2425P
その意味で、彼らは自分たちの行動が社会の同意に基づいていると言うことを自覚した上でやっている、と著者は指摘する。ストレスからくる外部への攻撃欲求(以下ではあまり触れていないが、その攻撃が内部というか、自己へと向かった例が少女たちのリストカットや拒食症ではないかと著者は推測している)と、そこにあつらえたように用意された社会の側からの野宿者への偏見・排除との交錯が、野宿者襲撃となって現われる。

著者は、野宿者襲撃といじめには相当の共通点があるという。実際「集団で凶悪事件を起こした少年」(野宿者襲撃もふくむ)の多くは「家庭」「学校」「友人関係」のなかで全く自分に自信が持てず、仲間はずれを恐れて過剰に仲間に同調したり、親からの叱責や過剰な期待によるストレスなどが圧力要因として指摘できるという。そして、それら少年事件での「ほとんどの少年にいじめられ体験が」あったという。

ここから見えてくるのは、いじめの対象が同級生という自分と近しい存在であっても(もしくはだからこそ)起こるのと同じように、いくら野宿者への偏見をなくしたところで襲撃をなくすことにはならないかも知れないということだ。著者は野宿者への偏見をなくすための啓蒙活動を前提とした上で、襲撃を起こす少年たちの置かれた状況をこそ問うていく。


●ふたつの「ホーム」レス

いじめ、そして野宿者襲撃は、他者への攻撃による「生の実感」=「自己の存在確認」と、攻撃での一体的な「連帯」=「仲間関係への過剰適応」が対となって働く行為だと言えるだろう。
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野宿者襲撃を起こす少年たちが言う、「生きる価値がない」という発言は、むしろ彼らがつねに家庭や学校で自身が受けている圧力そのものなのではないか、と著者は指摘する。そこには野宿者を、自業自得で家を失った同情してやる価値もない無能な人間と捉える視点と同じような圧力が存在している。言ってみれば勝ち組負け組をめぐる強固な競争に勝たねばならないという焦燥が彼らを抑えつけているのかもしれない。

そして、勝ち負けはそのまま生きる「価値」に対応してしまう。この異様な社会的ルールのなかで生きざるを得ないことが、少年たちにそのルールを過剰なまでに内面化することを要請している。しかし、そのなかでは彼ら自身の存在は「価値」でしかはかられず、自己承認を得られることが決してない(無価値へ転落することの恐怖)。

つまり、襲撃に走る子供たちには、家があっても自分たちが安心して帰属できる居場所(ホーム)がない。野宿者たちもまた「日本社会の中で居場所がない」のである。野宿者襲撃とは、そんな両者が最悪の形で出会ってしまった例だったという。いまの社会的状況を写すネガなのだ、と。野宿者たちが野宿に至る原因の一端としてある、社会的保障、家族関係、地域社会の機能不全はそのまま、若者たちにも影響している。

しかし、両者が連帯できる可能性があるはずだと著者は言う。九十年、大阪釜ヶ崎の西成署で、署員が暴力団から賄賂を受け取っていたことが報道されたとき、労働者たちは警察署のまわりにあつまり、次第にそれが暴動と化していった。次々と投げられる石や資材、機動隊による制圧、そして逮捕される労働者にまじって、二日目から労働者ではない数多くの若者が混じりだしたという。寄せ場に関係ないはずなのに、率先して機動隊に石を投げる少年たち。かなり広範囲から集まってきたらしく、テレビで報道されたのを見た東京の少年たちまでもがそこに参加した。参加した子供たちは警察に虐げられる労働者を見て、自分もまた家や学校でさらされる自分と重ね合わせ、「自分の問題だと思った」という。

野宿者襲撃がネガであるなら、これを著者はポジであるという。襲撃という最悪の形での出会いではなく、共闘が可能になった瞬間だ。個人的にはこの暴動のくだり、とても面白かった。前半の暗鬱な記述に息苦しく感じていたところを爽快に突き抜ける気持ちよさがある。でも、こういう暴動とかが嫌いな人は多いんだろうな(これは酒井隆史「暴力の哲学」に繋がる話でもある)。

抑圧され、居場所がない人々が、さらなる弱者を見いだして暴力をふるうのではなく、上から押しつけてくるものに対する抵抗において出現する一瞬の「共闘」。著者はその現場で野宿者支援のビラを配れなかったことを残念に思ったらしく、いま高校生などを対象に野宿者についての授業などを行っているのは、十年越しのビラ配りなのだという。授業後の反応や野宿者支援の活動に興味を持つ生徒たちの感想から、著者は、上記のような過酷な勝ち負けゲームではない、別のルールを構築していく可能性を見る。

若者問題も野宿者問題も、「家族・会社・学校」そして国家の制度疲労、機能不全に由来している、と著者は見る。そのなかで推し進められ新自由主義的変化が、勝ち負けゲームをより強固にしていくのだという危惧があるのだろう。セキュリティ意識の高まりとともに容赦なく排除されていく野宿者の存在は、そのゲームの帰結の具体的な姿だ。ゲーテッドコミュニティのように、勝ち組は自分たちだけで安住できる場所を作ろうとし、負け組はさらなる過酷な状況に追いやられる。

著者が高校で授業を行なっているのは、野宿者というさまざまな社会的問題の凝集された場所にふれることで、、オルタナティブな世界を構築するためのきっかけにしてほしいという願いが込められているのだろう。


続く。