「壁の中」から

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笙野頼子のドライブする文体

笙野頼子「幽界森娘異聞」

幽界森娘異聞

幽界森娘異聞

この本はずいぶん前に買っていたのだが、肝心の森茉莉をほとんど読んでいなかった時期だったので、もったいないと思い、森茉莉の、すくなくとも「甘い蜜の部屋」くらいは読んでから読もうと思っていた。で、先日「蜜」を読み終え、これに取りかかれることになった。

実はそれ以前に短篇集「恋人たちの森」の冒頭の一篇「ボッチチェリの扉」を読んだ時、強く笙野頼子を連想した。その短篇は同性愛をテーマにした一連の作品とは異なっていて、三角関係の愛憎劇であり、ある種古典的な物語を語ったものだが、そこで設定されている語り手の姿が、妙に笙野頼子と重なってきた。詳しくはもう覚えていないが、夢を、自分の夢想を周囲の抑圧から護り、確保し、現実の酷薄さの中に戦いの橋頭堡を築こうとする意志が、森茉莉にも、笙野頼子にも確かに見えた。

私的言語の戦闘的保持、という言い方を笙野頼子は好んで使うが、これを妄想・空想に言い換えると、それはそのまま森茉莉の小説が漲らせているものになるだろう。「甘い蜜の部屋」での絶対的な構築性はそういう類のものだ。

でだ(笙野風?)、その笙野頼子森茉莉がこの小説のなかで遭遇し、炸裂的な言語戦略を展開することとなったのは一種の必然だといえる。

しかし、その両者の小説としての体裁はずいぶん異なるものだ。森茉莉が、自らを脅かそうとする何ものかに対して、その作品世界の構築性および堅固さをひとつの壁として、甘い批判を寄せつけない強度を得ているが、笙野頼子の書き方は、敵対物自体への直接的、間接的言及を続けるうえ、作品の基礎的モチーフ自体が敵対性を漲らせている(「レストレスドリーム」後半とか)。

偶然遭遇した野良猫を、悪意ある人間たちから守る羽目になってしまった一部始終を書いた「愛別外猫雑記」の感想でも使ったが、笙野頼子の全作品は「ある戦いの記録」とでも総称できると思う。そういった闘争的スタンスが、笙野頼子笙野頼子たる所以だ。


が、それにしても特にこの作品はその文章の攻撃性が突出している。たとえば、

このお話は、女が好きなのに交際がなく自分で「男前も普通(って言ってる奴の容貌印象がまともだった例しなんてひとつもないぞっ、例えば男前は普通と自称する引っ込み思案の三十八歳が十八!の女に交際申し込んで断られたと不服そうに書いていたりする身の上相談とか前見たけど、その不服さ自体がどう転んだって普通じゃないんだよ。特にこの主人公白人女の前では「自信がない」くせに。そもそも普通って言うのはまさに醜男って言う事だぜ。特に若い女から見た場合にはな――笙野勝手に注)」と言ってる程度な容貌の、小柄な独身オタク讓治が、カフェの見習いで十五の小娘の容貌性質を、他の美人と十分比較検討し品定めした上で「小鳥」兼「女中」という扱いで同棲相手に選び、彼女を「西洋人」のような「偉い女」に育てようとする、という源氏にさえ出来ん事を馬鹿がやるリサイクルジャンク小説であります。しかしリサイクルである以上相応の志が必要、なはずなのに、なぜか彼は自分の現代的けち貧乏小市民西洋かぶれに対して一切の抵抗を行わず、もとより自分自身の性欲に何らの疑問も持たない。そして女に引っかけられたただのいい人のまま物語を進行させた挙げ句、相手の女の事は悪魔で天使であるかのように後半から唐突にデフォルメしております。
 ねえ、十五でロリコン男の家に住み込んで部分写真撮られて、ビフテキ三皿(おやおやここも)たいらげても水着で泳いでも、ただの「お轉婆」で片付けられてしまい、声の描写だって「ソプラノ」で終わり。ついには「チャプ屋か何かの女」みたいと飽きかけられて、他の男ときちんと関係してあげたのに男は自殺さえしてくれなくって、そんなものが何でファムファタールだ。すかすかだなこれは。男のつまらなさや女の境遇をもっと書き込みたまえ。「ふん、そんなのしないもん」だって、そう、進行しさえすりゃいいのですよ物語が。
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という、谷崎「痴人の愛」批判のくだりなどが典型だ。妙に具体的かつ子細で、攻撃性の強い異様にテンションの高い文章が続く。谷崎自体私は好きな方だが(さほど数を読んでいないが)、「痴人の愛」へのこの批判はわからないでもない。。そもそも「痴人の愛」ってあまり面白くなかった。「春琴抄」や「滋幹」なんかに比べて、非常に“軽い”という印象がある。

また、ここで批判される讓治の性格、一種の甘えは谷崎の他の作品にも出て来る。それだけならまだいいが、谷崎の小説にはときにその甘さが耐え難い域にあるものがあり、初期の「異端者の悲しみ」などはひどいもんだったという覚えがある。タイトル通りの内容で、あんまりにも自己悲劇化の度合いが激しいので、むかむかしながら読んでいた。「痴人の愛」は、この種の甘えが女性を餌にして垂れ流されるかたちになっている気配があるので笙野がここで猛批判するのもよくわかる。

話を戻す。この小説全体が、上記引用のような文章で書き継がれ、書き手の森茉莉へのあばたもえくぼ式偏愛とともに、森茉莉に及ぶべくもない書き手、作品が徹底的な批判にさらされていく。谷崎以外にもやおい小説の開祖(?)であるらしい栗本薫の小説に対しても辛辣な批判が加えられ、彼女の森茉莉を利用した狼藉が憤りと共に語られる。この小説は異様なまでに「闘争モード」で書かれていて、その激しさはこれまでの作品群のなかでも突出している。

そして、ここで書かれている文章は、およそ旧来の規範的文体観からは評価出来ないだろうと思われるほど、“壊れている”。口語、俗語、饒舌体、括弧書き、さらに一文ごとに文体のリズムが変化し、ですます調と口語体とが入り交じるこの文体は、まさに“笙野モード”とでも呼ぶほかない異様さをふりまいている。この文体につきあうのは、実はかなり骨の折れることでもある。なぜなら、一文ごとにテンションが変わり、文体が変わるのについていくのもそうだが、それらの壊れた文章の向うに見える笙野頼子の“書く”事への異様なまでの意気込みが過剰なまでに読むものに迫ってくるからだ。文体を壊すほどの情熱が、壊れた文体がもたらす迫力が、笙野頼子という書き手の偉容をびりびりと伝えてくる。一言で言えば、笙野頼子はあまりにも生々しい。やばい。

現代の書き手の中で、これほどまでの迫力と生々しさを持つ小説家というのは他に見た事がない。現代以外でもどうか。笙野頼子は自分自身の私的妄想を武器に、様々なものに切り込んでいく。この「幽界森娘異聞」では、森茉莉を守護神に、上記の谷崎、栗本以外にも色んなものに生身で戦いを仕掛けていく。そして、それと平行して日常生活では「愛別外猫雑記」での猫騒動での戦いも進んでいる。

戦いを意識してか、相手方の言いそうなことや、書きそうな事について、事前に反論を織り込んで文章が書かれていく。上記引用にも少し出てくるが、戦闘的であるがゆえに対話的で、さらにその対話の相手が読者次第で誰か特定の相手だとわかる場合とわからない場合に分かれるようなぼかした書き方で作中に出てきたりして、明確明晰な批判と言うよりは、妄想的炸裂的な攻撃性が迸る。それが、文体の壊れ方のもうひとつの相だ。

この、ぶっ壊れたドライブ感覚が笙野頼子の最大の特徴で、前記の“笙野モード”とはこのことだ。ここに、妄想、思索、批判、描写、他人からの言葉などなどが乗っかって独特のドライブ感覚が生まれる。この笙野モードのドライブ感は読む上で格別の楽しみでもあるが、同時に、圧力と迫力と書き手の生々しい情念が炸裂する緊迫感漂う作品世界は読み手の精神もがりがりと削るようなものがある。

この圧倒的な迫力。いまいちばん凄い作家は誰かと問われれば、私はまず間違いなく笙野頼子を挙げる。


次はS倉迷妄通信を読もう。