「壁の中」から

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笙野頼子の「ヒステリー」としての文体

水晶内制度

水晶内制度

笙野頼子にそれが欠けているということが最大の美点になっているものは“上品さ”だと思う。笙野頼子は、その仕事に比べ明らかに言及されることの少なさが目立つ作家だと思うが、理由はたぶんそこにある。

なにも笙野頼子が下品だと言いたいわけではない。たとえば文体を見てみても、いままで何度か引用したように、いわゆる“上手い”文章というものではなく、むしろ既存の文学というイメージからくる文体観をぶち壊すような代物だ。そこにある過剰さが異物としての存在感をごつごつと露出させているせいで、読みづらさというか、判りづらさ、というか、手に負えない感が漂うことになる。作品そのものにも、異様な情念と意志が渦巻いていて、読むものを圧倒する。

上品さという様式によって、生の感情や怒りが人畜無害なシロモノになってしまうことを徹底して避ける。彼女のそのスタイルは、「ドン・キホーテの「論争」」などの文学論争を起こす事になった動機に見て取る事ができる。疑問や問題やそこからくる怒りを、「大人げない」といったような上品な態度でなかったことにするというような“空気”、そして空気だけに留まらず、その上品さを押しつける圧力といったものに対し、徹底して抵抗すること。


自身でも“代表作”だという「水晶内制度」は、その抵抗、反抗の側面が特に色濃く現れている作品だ。「レストレス・ドリーム」などのSF的設定を用いた闘争的な作品の系列といっていいだろう。

今作では「ウラミズモ」という女だけの国が舞台として設定されていて、フェミニズムSFという括りをすることもできる。フェミニズムSFといえば、たとえばル・グインの「闇の左手」とかティプトリーの諸短篇が有名どころになるだろうか。他にも、ワトスン「オルガスマシン」やアトウッド「侍女の物語」(これはまだ読んでいない)、日本だと倉橋由美子「アマノン国往還記」(これも未読)あたりがある。あまり有名ではないと思うが、村田基の「フェミニズムの帝国」という作品を私は思い出していた。

フェミニズムの帝国」は、男女のジェンダーが逆転した世界という非常にわかりやすい設定で書かれたSFだ。男らしいということは弱々しく従順でお茶汲み担当であり、女らしいとは屈強で筋肉があり頼れる存在、という状況となった未来を舞台にしている。しかし、この作品、とてもツメが甘く、結局現行ジェンダーのイメージをなぞっているところと、物語として非常に不自然な部分があって、興味深い作品ではあってもさほどいい小説だとは思わなかった。

「水晶内制度」でも、男と女の役割の逆転が設定として導入されている。が、その水準は著しく異なる。「ウラミズモ」という国では、男には人権が存在しない。そもそも男とは「人」ではないために、保護牧場と呼ばれる隔離施設でのみ存在を許されている。この女だけが「人」であるというテーゼは、よく知られた「human」という人類を意味する単語は畢竟「Man」である、というラディカルフェミニズム(と呼んで良いのかどうか)的主張を下敷きにしたものだろう。ウラミズモでは学者は学女だし、詩人は詩女である、というように言語レベルでも「ウラミズモ」的な日本語の翻訳が行われていて、似たような言語体系であっても日本語とウラミズモの言葉とでは意味体系が著しく異なるために、意思の疎通が困難になるほど両者に差がある。

これは単純な逆転にとどまらず、徹底的に女中心の、女による女のための国家になっている。この社会で男とは、基本的にペット以下の存在でしかない。男社会の抑圧、暴力を告発するため、現代における権力構造を過剰なまでに、拡張し、誇張し、激越な諷刺として成立させている。


「ウラミズモ」は日本の千葉県あたりにできた独立国家で、原発(原文では“原”の文字を特別誂えしている)を抱え込む代わりに女だけの国の存在を認めさせたという経緯を持ち、いわば内なる外国、というものだ。しかし、海外の国からすればそれは依然日本であるという中途半端な位置にある国家だ。しかし、それでもウラミズモは女性を絶対的に優位におく特異な国家である事にかわりはない。

これは一種のユートピアである。しかし、これが単なるユートピアでないところがこの小説のキモだろう。ユートピアといっても、この小説については字義通りの意味、つまり、あり得ない場所、幻の場所、というような意味の方が妥当だろう。

楽園(ユートピア)として設定されているとも、現実批判の悪夢(ディストピア)として設定されているとも決めがたいのが「ウラミズモ」だと思う。というか、この小説は、女人国「ウラミズモ」に来てしまった(冒頭、語り手たる「私」こと「火枝無性(ひえだなくせ)」は、なぜウラミズモにいるのかを知らない*1)語り手がその国で異者であるということをひとつの軸として展開されている。楽園に来てすべてが満たされるわけでも、悪夢のような世界に愕然とするわけでもない。女である「私」はその「ウラミズモ」という国を基本的には支持するわけだけれど、それが全面的なものにはなりきれず、どこかアンビヴァレントな違和感を抱え続ける。そもそも、“「自由も倫理も性愛もない」女の楽園”という帯の文言からして単なる楽園を描いたものではない明らか*2。

その違和感の存在がこの小説を簡単な図式で解釈することを拒む。その違和感の中でも次第にその国で死ぬまで生きるだろうと受け入れていく語り手の心理もまた読みどころのひとつだ。


SF的な女人国の設定、そこへ訪れた語り手の微妙な心理、そして、この小説のもうひとつの読みどころは神話の書き換え作業だ。語り手がウラミズモにやってきたのは、ウラミズモの国家を根拠づける神話を作ることを依頼されたからだった。記紀神話を丹念に読むことによって、そこには女性の存在が歪められているのではないか、と推測し、様々な視点から、もうひとつの女人国ウラミズモのための女性中心の神話を再構築するという、凄まじい力業である。記紀神話は私はほとんど知らないし、学問的にどれだけ正当性があるか(ということをそもそも問うことが野暮ではあるが)はわからないが、ここで行われているテクストの書き換え作業はとても面白い。論じられた対象を読んではいない者にも面白さがわかる優れた作品論を読んでいる気分だった。


と、幾つか書いては見たが、この小説はもっと奥が深く、多彩で複雑な要素を持った作品で、とても簡単には紹介しきれない。たとえば「水晶内制度」は笙野頼子が唯一恋愛を扱った(とはいっても人形愛であるが)といわれる「硝子生命論」の続篇である。語り手の名前や、「水晶内制度」のなかに「ガラス生体論」として直接言及される「硝子生命論」は人形愛者の幻視建国をクライマックスとしていて、ただし、そこで幻視された国家がすなわちウラミズモというわけではないにしろ、両者は密接な繋がりを持っている。否定的なかたちであれ、両者はともに女性の恋愛がモチーフとなっている作品だ。そこでは男性の欠如した恋愛が語られる。「硝子生命論」(それにしても、素晴らしい題だ。「水晶内制度」という題もこれを意識したものだろう)を読んだのははもうずいぶん前なので内容を覚えていないが、「水晶内制度」での恋愛はまた異様に屈折している。たとえば、末尾近くのこんな部分。

私にもし恋愛というものが起こるとしたならば、それはただ一点に集中した狂気に過ぎず、その一点の外は全て悲しみと怒りの対象でしかないというような、つまりは私の全身が憎悪で出来ているという事の証拠に過ぎないのだ。
 私の恋愛には始まりも終わりもない。集中した狂気の中には何もないからだ。そればかりか発生して消えるまでの間、それは何も生まない。そこにあるのはただ、外への悲しみと怒り、それらの中から抽出したらしい激しい分離体験と恐怖だけだ。私から愛される存在には何の意味もない。それはただ人の感情や生きる気力を吸い込むマイナスの場所に過ぎないのだ。その場所がたまたま現実にあって目の前に現れたとしたら私は戸惑い、何をする事も出来なくなる。破滅するだけだ。しかしそれが鎮魂され、空想の少年として平和に私の脳内に留まっている時には「私の男」になり、大切な「男の私」になる。
 ……性欲とは何なのか尿意か貧血の痺れなのか。それとも突然体に兆して脳に抜けていく世界への殺意を指すのだろうか。
244P
とても恋愛を語る言葉とは思えない、凄い記述だ。この認識があるからこそ、おそらく女人国という設定を持ちながらも女性の同性愛でもなく、男性を性的に使役するというものでもない、官能を排した異色の世界を設定し得たのだろう。

他にも、「硝子生命論」に限らず、「タイムスリップ・コンビナート」や「シビレル夢の水」、「大祭」、短篇集「夢の死体」所収の短篇群などなどに見られる、笙野頼子特有の水とガラスというイメージの鮮烈さや、冒頭から延々と続く妄想的な部分は非常に魅力的だ。特に冒頭の妄想的描写は初読で面食らうのではないだろうか。ぶっ壊れた言語感覚とワニがどうとか、鮨がどうとか、奇抜なセンスあふれる冒頭のドライブ感はやはりすごい。


最後に、最初に書いた上品さを欠いている、という笙野頼子のスタンスを理解する上で私がすごく納得した文言を。

例えば病院にいた時、ヒステリー、ヒステリー、と私は言われた。が、あれはこの国では、というよりあの場面でさえ、決して医学用語ではなかったのだ。取るべきただしい態度、冷静な自己主張、いわれなき侮辱に対する必要にして十分な拒絶と抗議、主体性のある明るい観察、これらをはっきりと表明する事を総称して、この国ではヒステリーと呼んでいるのである。しかもそれらの多くは前の国で男性が女性に対して不快を表しながら「ヒステリーだ」と顔を背けたりする、つまり望ましくない態度とまったく同一の態度について称したものなのだ。
78P
これは笙野頼子の文体、スタンスへの適切な自註として読みうる。つまり、普通は顔を背けられるような上品さを欠いたと思われている彼女の姿勢は、上記の意味で「ヒステリー」を文体として採用したものだということだ。女性の自己主張としての「ヒステリー」を自らの文体の基礎とすること、男が顔を背ける態度を自身の方法として選択すること。闘争的、妄想的、狂騒的な笙野頼子の「ヒステリー」としての文体。


※1
スタージョンのヴィーナス・プラスXもあらすじを見るかぎり、多少似ている。
※2
この小説、ある意味でひきこもり小説といえるかも知れない。笙野頼子の初期の長篇、「居場所もなかった」や「なにもしてない」など(第一長篇「皇帝」も)をひきこもり小説として読むことは可能だと思うが、「水晶内制度」も、女性が男性を切り捨てて千葉の一角に大挙して引きこもる小説と読むこともできると思う。

付記
最新の「新潮」誌で三島賞受賞の鹿島田真希笙野頼子の対談が載っている。「水晶内制度」の「原」の文字について言及している。いわく、原発を扱っても、核の問題に触れると生の怒りを保存する事がむずかしくなるので、あえて原の文字を造字にした、とのこと。