「壁の中」から

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最近読んだ本 森茉莉、カート・ヴォネガット

甘い蜜の部屋 (ちくま文庫)

甘い蜜の部屋 (ちくま文庫)

森茉莉「甘い蜜の部屋」

「贅沢貧乏」「恋人たちの森」しか読んでいないので、長篇を。
てっきり「恋人たちの森」のような同性愛、少年愛的な関係を綴ったものなのかと思っていたら、鴎外の娘としての自分の人生を元ネタにしたフィクション。幾つかのエピソードや、この長篇で描かれる父親と娘との関係は明らかに森茉莉自身のものだろうが、かなりの部分フィクションなのではないだろうか。

三部に別れており、第一部「甘い蜜の部屋」が幼児期(七歳位)、二部「甘い蜜の歓び」が少女期、三部「再び甘い蜜の部屋へ」が十八歳になり結婚してからの物語となっている。

魅力的で、蠱惑的な少女、牟礼藻羅(むれもいら)、そのモイラという少女の魅力によってまわりの人々が惹きつけられたり、破滅に導かれたりするさまを、連綿と綴っているのがこの小説で、父親の絶大なる愛情と保護の元、無意識的な媚びを周囲に振りまく悪魔的な少女というふたりの親子関係を軸にし、きわめてゆっくりと物語が進んでいく。

各部で男たちがモイラに惹かれ、その媚態に魅せられていくのは、それぞれ第一部、アレキサンドゥル、第二部、ピータア、第三部は夫となる天上守安(マリウス)といった男たちで、みなそれぞれ、それまでの安穏な幸福を擲って、モイラにはまりこんでいくことになる。

この絶対的な美貌は一刻も揺るがない。しかし、それでいてモイラ自身は視点人物になることは少なく、むしろまわりの人間達から眺められている。父、林作(森林太郎のもじりか)、馬飼いの常吉、家庭教師、家政婦などに、眺められ、観察され、語られる。

モイラ自身、自分の心には半透明のガラスのようなものでできている部屋があり、すべての感情はそれを通っているため、なにかにつけても反応が鈍く、どこか自分自身がおぼろげに感じられているというようなことを思っている。そういった自分自身をもてあますようなところが、無意識の媚態の要因でもある。

わがままで、自分のやっていることをそれほどはっきりと自覚しているわけではないため、まわりの人間達を困惑させ、惹きつけ、悲劇の渦の中心になっていく。それでも、林作とモイラの関係は絶対で、変化を蒙ることはなく、万能にも見える林作が神のように絶対的な視点から愛情を注ぐモイラは、渦の中心であっても、台風の眼のように、普段通りだ。ラスト、少しく揺れはするけれども、それもまた林作の掌の中、という感じで、モイラと林作の甘い蜜の部屋の壁は揺るがない。

フランス文学の翻訳をしていた、というのがうなずけるほど、心理小説っぽくて、さらに登場人物達はみなすぐれた観察眼と繊細な精神を持っている(プルーストをちょっと連想した)。登場人物たちは家政婦、家庭教師、さらには馬丁(実はこの馬丁がかなりキーパーソンなのだが)にいたるまで、ささいなことですぐに事態の本質を見抜いている。ここには精神の貴族主義ともいうべきものがあって、愚鈍な人間は存在しない。

この、物質的にも精神的にも高貴さを徹底させるというのは森茉莉の小説のどれもがそうだし、エッセイ「贅沢貧乏」を読んで、物質的な高貴さは望めないとしても、そこを自分にとっての「贅沢」で覆い尽くそうとする貴族主義は通底している。

正直、この作や短篇群で書かれている豪奢にして耽美な生活はあまり好みではないが、夢想家としての力強さには惹かれるものがある。

そういえば、作中人物が森鴎外の作品を愛読しているという記述が現れ、びっくりした。品の良いロマンティシズム、文章の調子が高くて清貴、と形容されている。さすがはパパ大好き森茉莉、というか、作中の林作がいわば(虚構化、小説化された)鴎外であり、この作品世界には実在の鴎外は存在しないと勝手に思っていたので、驚いたというわけ。


この、少し滲んだ感じのカバー画が、しっとりとした感触を伝え、作中の雰囲気と相まってすばらしい。落田洋子・画

4 ヴォネガット「死よりも悪い運命」早川書房

死よりも悪い運命 (Hayakawa Novels)

死よりも悪い運命 (Hayakawa Novels)

現在、多数の長篇群もそうだが、エッセイ集はすべて品切れ状態のヴォネガットの、唯一文庫化されていないエッセイ集をやっと手に入れた。文庫単行本を区別しなければ、これでとりあえず邦訳に関してはすべてそろえたことになる。

エッセイはいつもどおり、上手く、面白く、アイロニーが効いていて、未来が悪くなっていくのではないかという危機感と、未来への希望を抱かせる。「タイムクエイク」で休筆、とのことだが、また書いているという噂もあり、ヴォネガットの新しい小説をまた読みたい。