「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

バラードの「闇の奥」


●「スーパー・カンヌ」続き

「スーパー・カンヌ」は装幀がなかなか良い。絵の色合いやデザイン、文字の置き方も気に入っている。「コカイン・ナイト」のカバーは結構アレだったけれど、これはいい。ただ、カバー紙を外した中身の表紙のオップ・アート未来チックデザインは気に入らない。新潮社装幀室の仕事って、そつがなく、いわゆる「良い趣味」の方向性なんだけど、突出した良さがないうえ、二番煎じになっている場合が多いように思う。古井由吉本の装幀が、菊地信義の真似に見えるのはどうかと思った。あと、三島や谷崎の文庫のカバーを最近変えているみたいだけど、あれはひどい。字を大きくすればいいのか。

あと、「スーパー・カンヌ」の主人公がポールで、妻がジェインだというのは先回書いた。読んだ時に思ったのは、これはボウルズ夫妻を意識しているのか、ということだった。ポール・ボウルズ、ジェイン・ボウルズの作家夫妻である。私は短篇くらいしか読んでいないので、このネーミングが何かの示唆を含むものかどうかはわからない。

それと、訳が微妙に思える。元々凝った表現をする作家なので、ぎこちないところが見えるとキレが鈍ってしまう。それと、マンデルブロをなぜかマンデルブロットと訳している。シューペル・カンヌをスーパー・カンヌとしたように、英語風発音でそろえたと言うことか。

「スーパー・カンヌ」はamazonbk1やらの書評を見ると、皆がこぞって高評価をしていて、すごいギャップを感じる。私の正直な感想は前書いた通りだけれど、こうも真逆だと不安にもなる。好み以前に、前作、前々作を考えると、それほど面白い代物ではないと思うし、訳者いわく「よく書けているサスペンス」ではあるかも知れないが、その部分もあまり楽しめなかった。

プロットや文章、また、現代のテクノロジーと社会のなかで人間精神が蒙る影響について書くというスタンスはまさしくバラードなのだけれど、圧倒的に薄いというのが私の違和感の根っこにあって、それはこの小説がサスペンスミステリという迂回の形式を取っているからではないかと推測をしたのが前回書いたことの要約。有無を言わせぬ迫力、というのが欠けている。オブセッションの中に潜っていくと、いつしか人物の内面と外界とが異様な形で交錯する、とか、一種の形而上学的啓示とでもいおうか、比喩が具体化して迫り出してくるところが面白かったんだけれど、それが感じられない。
わざわざこれをバラードが書く必要があるのだろうかという気分もある。

「スーパー・カンヌ」ではないが、コカイン・ナイトへの高橋源一郎の書評を見つけた。ほとんど絶賛なのだけれどあまり賛同できない。前にも少し書いたけれど、高橋源一郎の書評は惹句と面白そうに見せる手腕は巧いのだけれど、どうにも信頼できない。作品よりも書き手(の“考え”とかではなく、“存在”)が前面に出てくる感じや、大事なところは隠して誘い込む(本を読ませる書評としてはいいのだろう)語り口がなんだか詐術に思えて、違和感がある。書評家としては大きな存在らしく、影響力もあるようだけれど、高橋氏の小説を読んでもいない私にはよくわからない。

ところで、書評末尾の

わたしは、ここで行われる「犯罪」が、その深層では、別のなにかに似ている、と思いました。それは、たとえば「同時多発テロ」とそれに対抗する「戦争」に似ている、と思ったのです。もちろん、バラードは、そのことを知って書いたわけではありません。
というのは、何を指しているのだろうか。高橋氏が両者にどういう繋がり見てとったのかはっきりしないのでこれ以上は触れない。


●バラードとコンラッドと熱帯

むしろ、高橋氏の書評にさそわれて読んでみたものの、どうもぴんとこないというOK氏の「コカイン・ナイト」評のほうが、私の感想に近い。この感想は「コカイン・ナイト」に対してのものだけれど、私の「スーパー・カンヌ」の感想と似ているところがある。

OK氏は「ちなみに本作のプロット構造は、ジョーゼフ・コンラッドの『闇の奥』を下敷きにしているのかもしれない」と追記しているのだけど、この推察はたぶん正しい。そして、その正しさは「コカイン・ナイト」にだけ当てはまるものではないと思う。

バラードのエッセイ集「千年王国ユーザーズガイド」を読んでいて、ある考えが浮かんで、急いで「闇の奥」を読んで見た。その考えというのは、バラードの長篇は多くがコンラッド「闇の奥」のリメイクのようなものなのではないかということだった。バラードはもともと、プロット展開が似た話ばかり書く作家だけれど、そのプロット構造は何に由来しているのかというと、たぶん「闇の奥」で、バラードは自身の「闇の奥」をつねに書き直し続けているのではないか、と。

起源もしくはある場所への旅が、同時に内面への旅でもある(破滅三部作では時間の遡行でもある)という重層性を用いることの多いバラードの小説のプロット構造が、「闇の奥」でコンゴの熱帯の川を遡行していくと同時に、なにか心の闇、人間の闇(あるいは、「地獄」)というものへと潜っていくマーロウの旅から着想されている可能性はきわめて高いと思う。方法としては共通のものだ。全く同じプロットといえるわけではないけれど、両者の遡行の旅の感じもよく似ている。解説いわく「悪夢のような事件のパノラマ」と評される展開の仕方は、特に破滅三部作などや「奇跡の大河」あたりの作品からうける印象と相似のものだ。内面と外面とが一種の比喩で交錯するようなバラード作品の特徴は、コンラッドに求められるかも知れない。

遡行は、まるであの地上には植物の氾濫があり、巨木がそれらの王者であった原始の世界へと帰って行く思いだった。茫漠たる水流、欝然たる沈黙、そして涯しない森林。熱した大気は、ひどく重苦しく、物倦げだった。照りつける陽光の中には。いささかの歓びも感じられない。ただ遠く遠く、物影一つない水の流だけが、涯しもなく欝蒼たる森の奥へとつづいている。銀色に光る砂堤の上には、河馬と鰐とが頭を並べて日向ぼっこをしていた。ひろびろと打ち展けた水流は、欝蒼と茂った無数の小島の間を流れ、その中で船は、まるで沙漠の中のように、またしても道を失った。そして水路を求めて、終日幾度となく州に突きかけているうちに、人々は、自分たちが何か魔法に呪われて、既知の世界とは永久に隔離され、――どこか遠い――おそらくはまるで別の世界にでも閉じこめられているような思いがしてくるのだった。
岩波文庫中野好夫訳「闇の奥」6869P
一読して、バラード的な世界の萌芽が見いだせるくだりだと思う。「原始の世界」への遡行は、破滅三部作の特に最初の二作、「燃える世界」「沈んだ世界」を思い出させる。

もうひとつの相似点は熱帯のイメージである。「ヴァーミリオン・サンズ」や破滅三部作などに顕著な、熱帯、砂漠、密林のモチーフの源泉もまたコンラッドなのではないか。幼少期バラードは上海のイギリス租界で育ち、その後収容所で生活するのだけれど、このあたりに熱帯嗜好の元となるような体験は見受けられない。飛行への嗜好は「太陽の帝国」や「女たちのやさしさ」あたりに書かれていた気はするが、熱帯についても書いてあったかどうか、ちょっと思い出せない。

バラードが頻繁に言及する作家を挙げると、ジェイムズ・ジョイスグレアム・グリーンウィリアム・バロウズコンラッドあたりになる。特にコンラッドについては作中での言及が多い(クルツへの言及もある)。グリーンも「スーパー・カンヌ」の場所柄―グリーンの終の棲家の近辺を通るせいか、よく言及している。バラードが特に思い入れがあるらしいジョイスバロウズは逆に小説のなかでの言及はあまりないように思う。


いま、ここまで書いてから、ちょっと心配になってユリイカのバラード特集を読んだら、ばっちり上記の点を論じた文章が載っているではないか。富士川義之「熱帯のバラード」。そのものズバリである。

『闇の奥』は、激しい狂暴な原始的自然の呪縛のなかで歪められる人間性の破滅、荒廃を主題とする作品だが、表題の「闇の奥」が、暗黒大陸の闇の奥であると同時に、人間性の闇の奥でもあることはここで念を押すまでもなかろう。また人間性の闇の奥への熾烈な関心が、暴力的なトロピカル・イメージの執拗な反復を通じて提示されていること、そこにこの中篇の最大の魅力が存在することもまた改めて贅言を要しないであろう。ジャングルの深奥部へと突きすすむことは、ここでは明らかに、闇に包まれた人間性の起源を探ることと等価に見なされているのである。
 ひるがえってバラードの破滅四部作を見るとき、彼もまた、反復強迫めいた熱帯の自然の災厄や。猛威のイメージのおびただしい氾濫を通じて、人間性の闇の奥にうごめく奇怪な衝動に証明を当てようとしていることが知られるのである。その意味で破滅四部作は、その基本構造において、敢えて言うなら、『闇の奥』の新しいヴァリエーション、いわばそのSF版といった特徴を持つ作品群であるように思われる。
1986年6月号「ユリイカ 特集*J・G・バラード 終末の感覚」160P
大略その通りと言うしかない指摘だ。ただ、富士川氏はこうもつけ加える。「災厄が外部からのみ襲来するという天で、バラードは、『闇の奥』のコンラッドとは、明らかに異なると言ってよい。『闇の奥』では、災厄は外部からと同時に、いやそれ以上に、人間の内部から襲ってくるものなのだから」。これも、まあその通りだろう。というよりも、バラードの主人公にあっては、その災厄に進んで同化してしまう契機がしばしば見受けられ、いわば誘われるようにふらふらと「闇の奥」に魅せられていく。『闇の奥』の末尾でマーロウとクルツの婚約者とが交わした会話のような皮肉な残酷さのようなものはバラードにはあまりない。

バラードには、全体を隠喩的にまとめてしまうところがある。「ユリイカ」の同じ号で沼野充義が「バラードの世界には異質な他者の存在すべき「外部」が徹底的に欠如している」と指摘しているように、外部と思われたものが実は内部であるというような(沼野論文では「アルファ・ケンタウリへの十三人」を例にとっている)逆転により、すべてが内部に収斂するような志向がバラードにはある。メタフォリックと言っていいのかどうかはわからないが、奇抜な比喩を駆使する文体もあって、小説全体が隠喩的な結合を迎え入れるところがある。「スーパー・カンヌ」で、主人公がいつしかグリーンウッドと同じ行動を取り始めるような、予示された終焉をなぞる黙示的な展開がバラードの小説にしばしば見られる通り、言ってみればバラードは“予定破滅的”な作家だといえる。