「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

バラードの南仏の退屈

スーパー・カンヌ

スーパー・カンヌ

プリースト「魔法」で南仏を旅行しているのを読んでいて、ふと思い出したのでJ・G・バラード「スーパー・カンヌ」を読んだ。同じあたりの土地を舞台にしているのに、全く違う印象。

「スーパー・カンヌ」は企業の重役や社長など資本経済のトップにいるピープルが集まる、カンヌ郊外のエデン=オランピアという高級住宅地を舞台にしている。監視カメラが張りめぐらされ、カード認証の立ち入り制限、特別な警備組織が設えられ、門に閉ざされた、いわゆるゲーテッドコミュニティの典型のような場所。

ここに招聘された医者ジェインと、事故で故障しもう飛べないパイロット、ポールのシンクレア夫妻がやってくるところから話がはじまる。ジェインは、ある医者の欠員を補うために呼ばれたのだが、その医者が起こした事件で、このエデン=オランピアはある不安に包まれていた。

ジェインの元同僚だったその医者、デイヴィッド・グリーンウッドは、銃を持って十人もの人間を射殺し、自殺するという事件を起こした。エデン=オランピアという高度なセキュリティを誇る場所で、動機の不明な乱射事件はそこに不安をもたらし、いまだ解決されない謎として残っていた。

ジェインが医者の仕事にいそしむ間、ポールは暇な身をもてあまし、グリーンウッドの住んでいた家に住んでいるという状況にも背中を押され、エデン=オランピアの謎、グリーンウッドの乱射事件の詳細を追求し始める。

これは一種のサスペンスミステリといった趣で、「コカイン・ナイト」や「殺す」などと状況設定、問題意識などが共通している。「病理社会の心理学」という名の三部作を予定しているらしく、「コカイン・ナイト」「スーパー・カンヌ」「ミレニアム・ピープル」(未訳)で構成される。

Millennium People

Millennium People

訳された作品について言うなら、これらはすべて、セキュリティの行き届きすぎた管理されたコミュニティでの人間の心理についての探求を旨としている。安全さに包まれ、死んだように生きる(確かコカイン・ナイトにそんな表現があった)ということがもたらす人間精神への影響を警告する、というところだろうか。


で、前置きは良いとして感想だけれど、正直、退屈だった。

ここで展開されている事柄すべてには既視感しかない。「殺す」の時点では、ゲーテッドコミュニティにおける逆説、というようなものに面白味と新鮮さはあったけれど、そのモチーフは「コカイン・ナイト」の時点で既に陳腐化していたし、サスペンスじみた展開が小説の長さにしか寄与していないように思えて、あまり興がのらなかった。

殺人事件の謎を追ううちに見えてくる犯罪の影、という基本プロットなどが「コカイン・ナイト」と「スーパー・カンヌ」でほとんど変わらないのもマイナスポイントで、同じ小説を二度読んでいる感が否めず、この二作の何が違うのかよくわからない。「殺す」か「コカイン・ナイト」を読んでいると、「スーパー・カンヌ」で謎めかされている乱射事件の真相などはだいたい予想がつくし、エデン=オランピアの謎めいた雰囲気も裏に何があるのか最初っからわかってしまう。

しかし、昔のバラード作品なら、こういう批判をはねかえす作品それ自体の強度とでもいうものがあったと思う。同じプロットだろうが見慣れたモチーフだろうが、それでも面白かった。破滅三部作の「結晶世界」「燃える世界」「沈んだ世界」は、主人公が変なオブセッションにとりつかれて深みにはまるという展開は同じであっても、それぞれの結晶化したり、砂漠化したり、水位上昇したりといった光景、ヴィジョンの鮮烈な描写と妙にグロテスクでデカダンスな退廃の雰囲気が執拗に書きこまれる。それだけに終わらず、内宇宙とバラードが呼ぶ、精神と外界の交錯が強烈な印象を残す。

テクノロジカル・ランドスケープ三部作「クラッシュ」「ハイ・ライズ」「コンクリート・アイランド」も、メディア(マクルーハン的な意味で)と人間精神の関係の探求には、やはり強烈なヴィジョンの提示があった。個人的には「ハイ・ライズ」でのどんどん野蛮になっていく高層ビルが気に入っている。

「スーパー・カンヌ」を読んで、以前の作にあった独特の迫力のようなものが欠けているという印象を抱いた。非常に平坦、というか浅い。思うに、ここでバラードは小説を書く水準を変えたのではないか。

それまでの変なオブセッションに誘われてよくわからない行動を取る主人公ではなく、ある程度多くの読者に了解可能な行動をする主人公を据え、彼の目を通して叙述していくという風に変わったのは、作品の主張を一般化しやすい形で提示するためなのではないか。そして、これが退屈さに寄与しているのだけれど、用意されている結末にたどり着いて終わりという構成は、ともすると結末までに至るプロセスがすべて迂回路にしかならなくなってしまう。この小説の妙な長さ(二段組み400頁弱)はそういった迂回によって支えられているように感じる。テーマ自体は「殺す」で充分な気がする。

そして全体で主張されるテーマが妙に普通になってしまっていてあまり魅力がない。破滅三部作にしろ、テクノロジカルランド・スケープ三部作にしろ、「夢幻会社」や「奇跡の大河」や短篇群にあった魅力的な光景が、ここにはない。

「コンクリート・アイランド」に山形浩生がつけた挑発的な解説には渋々ながらも同意せざるを得ない。

エンタテイメント性を付加したら、バラードの魅力がまるごと削げ落ちた、という感じがある。

未訳の「ミレニアム・ピープル」も、またこれと同じようだったら厳しい。柳下毅一郎によると、都市テロリズムを扱った長篇、ということらしいが。(「クラッシュ」あたりと変わっていない、と言っているけど、主張は変化していなくても小説の質においては変化があると思うんだが)

どちらかといえば東京創元社から増田まもる訳で出るという話がずいぶん前からある「Rushing to Paradise」の方が読みたい。ここを見ると、2000年中に出そうとしていたみたいだけれど、今にいたるも音沙汰はない。どういうことだ。

Rushing to Paradise

Rushing to Paradise

そもそも私は、奇想天外荒唐無稽にしてイメージの横溢ぶりは歴代最強の「夢幻会社」がバラードの最高傑作だと思っているような人間なので、そういうヴィジョンを欠いた「病理社会の心理学」シリーズに面白味を感じないのは当然かも知れない。