レーモン・ルーセルの奇妙な短篇
bk1に投稿した書評が掲載されていたので、リンク。
レーモン・ルーセル「ロクス・ソルス」
岡谷公二「レーモン・ルーセルの謎」
まず最初にこれら書評を書きながら、そこで使わなかった文章をこのブログでの記事の元にしていたので、どんな内容をどの記事に書いたのか混乱してくる。上の書評とここで書いている記事には幾つか重複する点もあると思われる。
その前にこれまでのルーセルにかんする記事について付言しておきたい。これまでずっと彼の作品と彼の生涯を関連づけて語ってきた。というより、ルーセルの「栄光の感覚」と彼の生み出した作品とを関係づけて語ってきたのだけれど、だからといって、彼によって書かれたもの(エクリチュール?)、表現されたものが、一種の彼の病の発現、つまり「症例」としては受け取らないでほしい。そうなると彼の作品は心理学的、精神分析的な診断の対象に成り下がり、作品のすばらしさがすべて「病気によって書かれた」という点に収斂してしまうことになる。それは避けたい。彼は決して「愚か」ではなかった。彼の作品はある種の「異常さ」を含んではいるが、それは彼の精神が「異常」であることと同じではない。
私が書きたいのは、レーモン・ルーセルという人物が書いた作品に読んだ人が興味を持ってもらえるような紹介文だ。これがそれに見合うかどうかははなはだ心許ないが。
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手法はそうなると起動と保護という機能をそなえることになるだろう。それは特権的な、手の届かない場をかぎり、その完全に厳密な円形があらゆる外的な束縛からそれを解き放つことになるだろう。 フーコー[1975]11P |
具体的にその「手法」を見てみる。
ルーセルのいくつかの短篇では、冒頭と末尾の一文が一文字だけ異なっている以外はほとんど同じ文章で書かれている。同音異義語を活用して、いくつかの単語(または綴り)が違うだけでほとんど同じ文章でありながら、まったく意味の異なる文章を二つ用意し、片方からはじまって、もう片方で終わるように、「その間を想像力で埋める」ことで、小説を作りだすのである。(岡谷[1990]281P)
この種のもので邦訳されたのは、「爪はじき」「綱渡りの恋」「黒人たちの間で」の三つが確認できるが、手元にあるのは「爪はじき」と「綱渡りの恋」なので、それを例にとる。
「爪はじき」
単行本にして十ページ前後の短篇となっているこの小説は、
「いきな盗賊」という芝居の中の代役の詩は、私の作だった (岡谷[1990]282P) |
「丈夫な赤いズボンのきれの裏地に巣喰っていた虫ども!……」 (岡谷[1990]295P) |
ここからは岡谷氏が付した解説を引用した方が話が早い。
第一行にあって、versは「詩句」、doublureは「代役」、pièceは「芝居」、foubanは「盗賊」、talon rougeは元来「赤いかかと」、転じて「いきな」の意。末尾の行では、versは「虫」、doublureは「裏地」、pièceは「きれ」、fort pantalon rougeは「丈夫な赤いズボン」の意である。 (岡谷[1990]281P) |
ある日主人公は友人が作った「夢幻劇」を見に行く。しかし、旅行に行っていたため初日には参加できず、彼が見たのは二日目の公演で、メフィストフェレス役を「代役」が演じているのを見ることになった。その芝居ではメフィストはたえず決闘をしていたが、彼が着ている緋色の厚手の生地には魔法がかかっていて、どんな名剣でもそれを傷つけることはできなかった。あるところにパナシュという盗賊がいた。何かを盗むときでも後ろから襲うことはせず、かならず剣を抜く時間は与えてやり、女には滅法慇懃で「いきな盗賊」という名で呼ばれていた。そしてパナシュは
ある日パナシュが盗みに出るために夜家を空けていて、彼の熱愛している情婦フォワルが一人で家にいるとき、その家の前をメフィストが通りかかった。フォワルは進んで彼を家に招き入れた。そこで一夜をともにしたが、パナシュの代母シックノードはその現場を見つけてしまう。息子の情婦を横取りしたメフィストに怒りを燃やすシックノードは、前々から考えていた、メフィストの無敵の緋色の生地を台無しにする方法を実行する。妖精たちが現れ、服の裏地を縫い直して、魔法のかかったものではなく、シックノードが持っていたぼろぼろのものにすげかえた。そして、パナシュが帰宅し、情婦とメフィストとの現場を目の当たりにして、ふたりはは決闘することとなった。メフィストはパナシュをせせら笑っていたが、油断したところをシックノードが縫い直してただのぼろ切れになった部分を剣に貫かれる。腿に傷を負ったに過ぎないのに、シックノードが密かにパナシュの剣に塗っていた毒のために、メフィストは絶命する。決闘が終わったあと、シックノードは魔法の裏地を引き裂く。すると、それまで眠っていたのか、小さな蝶たちが生地から現れ、飛び去っていった。
見てわかるように、筋はごく単純で、妖精や盗賊が現れる「夢幻劇」(これは、コント・ファンタスティックのことか?)である。最初に出てきた友人、主人公たちは以降現れず、劇中劇の描写だけに終始している。この点は「綱渡りの恋」の方が構成はきちんとしている。
「綱渡りの恋」では、最初はある夫人の城館で人々が集まってクロッケをしているところからはじまる。上流階級の集まりというような雰囲気の中で、主人公は自分がそこに連れてきた犬の来歴を語る。その犬は元々サーカスの家族がつれていて、キャンバスに字を書くことができるという特技で売り出していた。その犬をもらい受けた顛末と、犬がどうやって文字を書くのかというネタ明かしが語られ、皆の前でそれを実演し、小説は終わる。
この短篇は劇中劇「綱渡りの恋」が挟み込まれている。これは、二つの家のそれぞれの息子と娘が恋仲になるのだが、親たちはそれを許さない。綱渡り芸人である二人はなんとか会うために、皆が寝静まった夜中、二人の部屋の窓に綱をわたし、綱の真ん中の部分で逢い引きを重ねていた。ある時それが家人に見つかり、譴責されるが、ふたりは、この恋を許してくれなければ、この高く渡した綱から飛び降りて二人とも自殺する、と宣言し、やっとのことでその恋が許されるという話だ。
「爪はじき」に付け加えるとすれば、冒頭から出現する「代役」。これは彼がかの「栄光の感覚」を味わった、最も忘れがたいはずの韻文小説のタイトルでもある。そしてdoublureというのはフーコーがそのルーセル論の中で繰り返し用い、注意を促していた単語、ドゥーブル―doubleというモチーフの重要な一局面である。フーコーはルーセルの作品の中に「二重化」のモチーフを指摘する。その指摘の詳細については私もほとんど理解していないが、その指摘は非常に重要だ。上に見た二短篇にしても、観劇が中心的な営為となっている。劇中劇という二重化がなされている。また、綱渡りという芸にしたところで、二点の間を結ぶという芸であるばかりか、それはそのまま、二つの文章の間を文字によって渡っていくルーセル自身に重なり合う(また、綱渡り芸人は戯曲「額の星」の冒頭の挿話にも出てくる)。
●秘密というものの影絵
作中で自分のことを何一つ書くことがなかったルーセルだが、その作品のなかの様々なモチーフがたやすくルーセル自身に重なり合うということは、フーコーも繰り返し指摘しているところだ。作中に謎解きの物語を多用しながら、自分もまた作品に手法という謎を埋め込んでいたルーセル。解かれることを望んでいるようにも見えるが、死ぬまで決してその秘密を明かさなかった。フーコーはそれを、特に印象的な以下のような比喩で表している。
目に見える舞台の上に秘密というものの影絵の戯れだけを出現させておくこと フーコー[1975]130P |
想像の世界を現実から区切るために用いられた手法が、表面からは隠されること。それが短篇から長篇へ形式を変える際に行われた。それがいかなる含意を持つのかは私の手には余るが、次は長篇と詩の具体的な形式について見ていきたい。
引用文献
フーコー[1975] ミシェル・フーコー 豊崎光一訳「レーモン・ルーセル」法政大学出版局 1975
岡谷[1990] 「澁澤龍彦文学館 9 独身者の箱」岡谷公二編 筑摩書房 1990