「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

第三回文学フリマの同人誌感想「残心」「短編連作『幻魚水想記』

文芸白菜「残心」
和綴じ本でかなり凝った作りをしており、手間がかかっているのにもかかわらず二百円という値段だったため、その場で買ってみた。貸していて、ちょっと今手元にないので写真はなし。東洋大学の文芸サークルとのこと。

三篇の小説が収められていて、全部合わせて百ページないくらい。
「2003年の火星と半月」
「フェイカーズ・シェイク」
「善人弁護」
と三作。著者名を忘れてしまったが、全部違う人が書いている。

で、中身だが、ここまで不愉快な小説はいままで読んだ記憶がない。感想を書くという考えでなければ最初の二行で放り投げているような文章が並んでいる。それでも、最後まで読めば何かしらこちらの感想とは違うものが出て来るかと思っても、最後まで最悪の予想の通りでうんざりする。
これは別に一作についてだけ言ってるわけではなくて、この同人誌の全作品がほとんど同じような「センス」に貫かれていて、どうしてここまで似ているのか少々気味が悪いほどだ。ただ、「2003年の火星と半月」はそこまでひどくはない。ただ、小説として失敗していて、評価できないが。

ひどい、とはいっても、文章のひどさだけなら「リアル鬼ごっこ」の冒頭部分を立ち読みしたときの、日本語になってなさ、よりはましだ。しかし、文章に込められた自意識の醜さにはほとほと嫌気がさした。特に酷いのが「フェイカーズ・シェイク」で、一番最初の文章からもうひどい。どうひどいか縷説したいところだが、あいにく手元に実物がないし、逐一引用していくと膨大になるばかりか晒し者にしているみたいになってしまうので、やめておく。
簡単に言うと、「逆鱗に触れる」と「琴線に触れる」を取り違えてしまうような文章意識で、漢字と二字熟語を多用しまくって「文学」っぽい文章を演出しつつ、自殺しようとする女子高校生を偶然にも助けて、あげくに経験のないその少女と寝てしまい、彼女を守ることを決意する主人公の物語、という少女フェティッシュと勘違いしたダンディズムの合わせ技。
「格好いい」自分を演出することしか念頭になくて、読めば読むほど気分が悪くなる。しかもそこで絡んでくるのが10代の制服少女というあたり、もうどうしようもない。小説というジャンルが自己意識に収奪されている様を目撃してたいへんイヤな気分になった。
もうひとつの「善人弁護」は、「社会に対して斜に構えている自分てなんて格好いいんだ」、以上のことは書かれていない。文章は「フェイカーズ・シェイク」ほど酷くはないが、自意識の表出の醜悪さはそれ以上。

フリマのカタログで、サークル自己紹介のところに「職業作家を志す東洋大生による文芸集団」とある。あまりに小説を舐めているこの同人たちにそのような可能性があるとは到底思えない。

同人誌が帰ってきたら、写真と著者名をちゃんと書きます。



横には「定価世界で一番高い五円」と書いてある。全部買っても二十円。

田吉一 短編連作「幻魚水想記」
第一話「喰うことと愛すること」
第二話「梨花三月石斑魚愁」
第三話「鯉神」
第四話「岩魚釜」

フリマのレポートでも触れたが、当日ブースにいたのは代理人で、その代理人に著者の方ですか、と訊いたら、「野田は今透析にいっています」と言われ、終わり際にもう一度訪れたら、そのブースには誰もいなくなっていた、という軽い怪談になりそうな体験をさせてもらった野田吉一氏の短編四冊。(何か健康にかかわることが起こったのでないと良いのですが)

隅田川の河沿いは、美談の種が両国の裏小路のある小さな御寿司処に、つつましく一つ、落ちていた。つつましく?……そう、万人の耳目にそれが、永く録されるほどのものではない、という意味で」
これは第一話の書き出し。今62歳を数えるという年季の入った人ならではの文章の妙味があり、文節の区切り方が馴染みづらい(目的語や主語の置き方がけっこう独特)ものはあるにしろ、それが退屈にはならず、きちんとした小説の文章を読む楽しさがある。「録される」というような言葉の使い方が浮き上がらず、全体に古風な言い回しを使っているのだけれど、ちゃんと小説の雰囲気に合っている。
小説の内容は、最初の三話までは、タイトル通りに魚を主な登場人物とした寓話的、風刺的な物語。古風な硬めの文体を使うことで、全体にユーモアを感じさせる。(文芸白菜の人には、これが「文体」なのだと言いたい)

連番が振ってあるけれども、一続きの物語ではなく、各個独立した短篇なので別個に読める。貫かれているテーマは、一応、人間と自然、だろうか。第一話は寿司屋の水槽に入れられた闘魚と、その餌として入れられた金魚との奇妙な関係を描く。餌として入れられたはずなのに、一向に喰われず、生かし続けられている雌金魚と、牡の闘魚のあいだの愛とも憎悪とも言いがたい、そういう関係。第二話は、魚の夫婦の話と開発される川とを書いた短篇なのだけれど、普通に読むとまるで人間の夫婦のように思える書き方がされている。短い。第三話は池の主と若い釣り人とをそのふたり(?)の背景などにも筆を走らせつつ人間の若者が鯉を釣り上げるまでを書く。第四話はまだ未完。ここで、作者その人なのか、「私」というこれまでの話でもちらちらと出てきていた存在が、全面的に出て来る。四話では、まず、その「私」がずっと書こうと思っていた「君子」という小学生の「幼いヒロイン」のことが縷々書かれる。この作品は本篇の小説が始まるまでにおよそ半分を費やしていて、ヒロインのこともそうだが、人間の自然開発及び資本主義と労働者について延々と書き連ねている。正直、比重が多すぎてバランスが壊れていると思う。擬人化された魚ではなく、人間だけを主人公に据えるというこの連作の初の試みと、この評論的文章の増大は何か関係があるのかどうか。これはまだ完結していない作品のようなので、あとがきで予告されている来年の文学フリマでの第五話を楽しみにしたい。


とりあえず、これで小説誌の感想は終わり。あと「空中散歩」と「クラヴェリナ」を買っているのだけれど、気が向いたら何か書きます。