「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

第三回文学フリマの同人誌感想「Ultra Sonic Bicycle」「零文学」


お隣さん第二弾。
エキゾチックケッタマシーン「Ultra Sonic Bicycle」
こちらは文庫本サイズで、きちんとカバーまでついている。60ページの本なのでカバーがちょっとあまり気味なのはご愛敬(薄い岩波文庫を思い出す)。ただ、本文の字組が読みづらい。字そのものが大きいわりに行間をつめすぎていて、文庫のわりに余白をとりすぎている。文章がまんなかに詰め込まれた感じ。これはちょっと読みづらい。

サークルは個人でやっているみたいで、渋谷川碧「Ultra Sonic Bicycle」一篇がこの同人誌に収録されている。

読んでみた感想は、タイトルと内容が合っていないと言うこと。というより、タイトルや本のデザインから私が思い描いていた小説と、まったく違っていた。これは単に私の思い込みが間違っていただけとは言えるのだけれど、自転車が描かれた表紙、サークル名とタイトルからして、私はてっきり、著者が自転車への偏愛を込めて描いた自転車小説(?)だとばかり思っていたし、じっさい読み手にそう思わせるようなデザインだと思う。私は、自転車をモチーフにし、自転車に乗るよろこびや風を切る爽やかさを好き放題に書いた、同人誌ならではの作品を想像していた。

あらすじはこう。
主人公沢井は、近くにいる人間の未来を見ることができる。しかしそれには条件があって、親しい人間であるほど未来は見えにくくなる。沢井はパン工場で流れ作業の仕事をしつつ、夜には力を隠しながら生かせる、占い師をやっていた。およそこの状況設定で大半を費やし、そこから物語が展開するのだけれど……

自転車はどこに行ったんだ、と思っていたら、沢井の占いとは、自転車占いだった。自転車を走らせてダイナモの光具合で未来がわかる、という趣向。他には登場人物の何人かが自転車好きで、こだわりの高価な自転車を愛用していると書かれている。
自転車が関係するのは基本的にこれだけだ。これは自転車小説、ではなく、未来を見ることのできる人間を主人公にした「異能者」ものの話になっている。ただ、後半の展開の仕方が急すぎて描写不足だし、構成がかなり不安定になっている。いうなれば、小説の内容が状況の説明と物語展開とで分裂していて収まりが良くない。このページ数に収めるなら、書く部分を絞る必要があったと思う。

というか、私がこの小説に不満を抱いているのは、この小説を読んでも書き手が自転車好きだということがまったく伝わってこないからだ。自転車が小道具にしかなっていなくて、しかもそれが物語の内容と乖離してしまっている。私は、書き手がいかに自転車を愛好しているか、ということを物語を通して語って欲しかった。


無頼舎「零文学」
黒井千次や大城立裕(大城を読んだことはない)にかんする評論が載っていて、「マジメに文学っぽいな、珍しい」と思い買ってみた。
目次を見ても、小説、評論、詩をそろえ、巻頭特集に同人たちの通っていた法政大学のある飯田橋を持ってきて、そこを舞台にして小説を書いた矢田津世子安吾を読む人なら知っているだろうと思う)を紹介する、という「いかにも」な構成。

マジメに文芸誌をやっている点、かなり力を入れているということはわかるのだけれど、いかんせん内容が私にはあまり面白くない。小説は計四作あり、二人の書き手が二つずつ書いている。そのうち二つは十枚もない掌編で、飯田橋競作小説の名で書かれたもの。
もう二つはある程度(三十枚以上はあると思う)の分量がある短篇。

大水由紀「私はそこにいた」「まるで万華鏡」
君島有純「坂」「footbridge」

文章はそれなりに普通で小説の形を整えてはいる。しかし、どの小説もつまらない。

「まるで万華鏡」は主人公の女性が久しぶりに帰省した故郷で、旧友たちと同窓会を開くものの、まったくなじめず疎外感を味わう。自分だけ東京に出て勤めていることを、旧友に褒められるが、主人公自身は旧友たちが働いたり家庭を持ったりして、きちんと自分の生活を作り上げていることに嫉妬する。そこで主人公は、昔の教師になりたかったという夢を思い出し、いまの自分に不満を覚えるが、それでも今の生活に不満を持ったり諦めたりしないで、今の生活に夢中になれるものを探したい、と終わる。

こういうことをじっさいに作者は体験したのだな、ということ以上の感想は浮かばない。「私小説」というか、日記小説というか。他の諸篇もだいたいこういう感じだ。「footbridge」は読者にを読ませようという意志が感じられて、それなりに読めるものではあるのだけれど、語られていることに興味が持てなかった。

評論の黒井千次論。ここで主に取り上げられている作品のほとんど(「時間」「五月巡歴」「羽根と翼」の三部作(?))は読んだことがある(が、忘れている)。ただ、この文章では社会的状況と作品の主題を緩くつないでいるだけで、作品内容への踏み込みが浅すぎる。三つの同じ主題の小説を扱いながら、その変遷のありさまに目を向けていない。戦後の経済成長のなかで、忘れ去られたものに「対峙」するというのが、三篇の主題であるというのはわかるのだが、それが作品の中で「いかに」書かれているか、ほとんど論じられていない。それがなければ説得力も面白味もないと思うのだけれど。先行研究を参照したあとも見られない。およそ十枚ぐらいと短いせいもあるだろうが。

私は黒井千次で面白いのは「群棲」だと思っていて、それ以外の作品にはあまり興味がない。初期短篇は作為が立ちすぎているにせよ、いくつか好きな味わいのものがあったが(「穴と空」とか)。

というか、この論からは書き手が黒井千次の何を問題にしていて、何に興味を持っているかがわからない。その点、大城論は読者を掴むための前提をきちんと作っている。が、大城立裕論はそのほとんどを前提を語ることに費やしていて、本論に入ろうかと言うところで終わってしまう。先を読みたいとは思わせるが、評価は保留。

それなりに読ませる作りになっているとは思うが、どうも内容が浅いように思う。非常に無難にまとまっていて、危なげなく、それゆえ面白味がない。


長くなるので別にするが、この雑誌で一番酷かったのは、発刊の辞みたいな「ゼロの文学」という文章。思いつきと思いこみの抽象論だけで文章が組み立てられていて中身がない。ある論を立てるとして、その根拠なり反証なりになりそうなものを検証した形跡が皆無である。目に付いた部分を引用する。強調引用者

ここ最近の文学制作者の増加はPCの普及なしにはありえなかったはずである。そしてこの増加は商業文芸誌の売り上げにはまったく繋がらないのだから、これは揺るがせに出来ない事実である。だから商業誌の経済規模の小ささに反比例して、文学制作の趣味領域での浸透は、音楽のそれよりもむしろ社会の広範に行き渡っているとみてよい。個人HPの開設から始まりウェブログの一般化に至るこの文学制作の増加は、人々がいかに潜在的な物書きであったかを雄弁に語っている。またそれだけに、商品としての文芸誌の魅力のなさを性格に表している」

太字にした部分について、この筆者はなんら数字的検証を行ってはいないし、「文芸誌」が何を指しているのかも不明である。文芸誌といって、彼が想像しているのはおそらく「文學界」「新潮」「群像」などだろうが、「オール讀物」とか「小説新潮」とかも分類上文芸誌であるはずだ。もっといえば角川の「ザ・スニーカー」とか富士見の「ドラゴンマガジン」、メディアワークスの「電撃hp」なんかは文芸誌とは言えないにしろ小説が大きな比重を占めている雑誌だし(だったと思う)分類上の文芸誌に比べれば倍かそれ以上の部数がある。

http://www.jmagazine.or.jp/FIPP/FIPPJ/F/

書き手とはそもそもどういう文章の書き手なのか、それをまず問わなければならない。知り合いなんかを見渡しても、ライトノベル、ミステリ、中間小説といろいろあって、いわゆる純文学を志望する人間は珍しい。もし、この筆者が「文芸誌」を「文學界」のようなものと想定していて、ネットで物書きが増えたのに文芸誌が売れないのは文芸誌の魅力のなさを表している、と言いたいなら、私には思考の道筋が理解不可能だと言うしかない。

筆者は「文学」と繰り返し書きつけるが、その時、文学とはいったい何かと反省的思考を重ねた形跡はない。「小説」でも「詩」でもない理由は何なのか。

また、インターネットでのHP開設やブログの普及が、「文学制作」と呼ばれてしまうのは何かの冗談としか思えない。そこで書かれるのは、メールや掲示板での交流であったり、日記または本や映画の鑑賞録だったりする。文章を書いてネットに発表するという行為がパソコンとネットによって普及したというのは、まあそうだろうとは思う。が、それと「文学制作」とを前振りもなく一緒にしてしまうのは暴論以前に、問題外というべきだ。文章を書く人間は確かに増えたのだろう。だがそれと文芸誌にいったい何の関係があるというのか。

というよりも、この書き手が「文学制作」という語をどういう意味で使っているのかがわからない。単に、「小説を書く」という意味なのか。それとも「文章を書く」こと自体を文学制作と呼んでいるのだろうか。ウェブログと「文学制作」を並べてしまうあたり、その可能性もなくはない。