「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

第三回文学フリマの同人誌感想「早大文学」「太平洋プロジェクト」

文学フリマでは、かなり目立っていた東浩紀大塚英志的な文脈のものやはてなダイアリー系のものは避けて同人誌を買った。文学フリマの素性からしてそういうものが目立つのは当然だけれど、まあ、ひねくれてみた。全く知らない人の創作小説とかをできるだけ読もうとしたけれど、金がないうえに適当に買ったので、買っておくべきだった、と今考えると思うものも多い。あまり参考にならないかも知れないけれど、同時代同じ場所で小説を書いている人が、どういうものを書くのか、そういう興味から読んでみた。

あとやはり、雑誌を売った人たちは、なにより読者の反応を知りたいのだと思う。肯定でも否定でも好悪でも、とにかく反応をしてみること。それはなにより私が、読んだ人の反応を知りたいということでもある。
ただ、同人誌批評は嫌われる、という意見をネットで見つけて、かなり気にはなっている。まあ、今から書こうとしていることが衝突の原因にならないように重々気をつけたいとは思うのだけれど。

これから、いくつか読んだ感想をアップしていこうと思う。わたし自身も書き手ではあったので、読んだ人からお前が言うな、とは思われそうだ。


早稲田大学現代文学会「早大文学2223合併号」
基本的に講演録を中心にして、創作を少し、という形の雑誌。「早稲田文学」という雑誌がすでにありタイトルが似ているが別物。
ふたつの講演録が収録されている。
ひとつは、スガ秀実大塚英志の対談、もうひとつは小田光雄永江朗、和田敦彦による読書と読者をめぐる鼎談。そのふたつはちらっと読んだだけなので特にコメントはしない。雑誌自体は大塚英志とスガという組み合わせが意外というか、面白かったのと、あとは書評誌「リブレリ」が気になったので一緒に買うことにした。
で、収録されている投稿小説を一篇だけ読んだ(もうひとつは散文詩だったのでパス)。

土屋滋「鼠が笑う」
悪い言い方になるけれど、「いかにも同人誌に載っていそう」という感じがした。文章を無闇に「文学的」にしようとしているところが見受けられるのと、妙なリアリティのなさが、その原因だと思う。

たとえば、冒頭には「工場の重い扉を開いて外に出ると、酷い夕焼けの中に街は沈んでいた」と出てきて、「酷い夕焼けの中に沈む」という言い回しが私には不自然に思えた。
この小説には他にも「四つの翼は朱の光の線にきらめき、それでもなお黒い影をまとい不敵に羽ばたいていた」とか「空はその喧騒を吸い込むように、漆黒の幕を街の頭上に広げつつあった」とか「風が凛として夜空を渡っていく。暗闇は彼の周りにそびえ続けていた。街灯や星明りが照らしても、そこにはまた新たな闇が生じていくのだと彼は思った」式の表現というか描写が頻出する。

これらの文章は、心象の投影として風景を描写している部分だと思うのだけれど、作為が目立ちすぎていて、文章の流れをせきとめ、他の文から浮き上がってしまい、結果全小説体をがたついたものにしているように思える。

物語は、中年を超えた男性が妻にも先立たれ、孤独な工員ぐらしのなかでひとり疲れていく徒労感のようなものを書こうとしている。それ自体はいいとして、展開が甘かったりして全体的にツメが甘い。夜の闇が迫ってくることと、死が男の周囲を覆っていくことを、パラレルに描こうとしていることの作為が目立ちすぎている。「闇」という言葉を使いすぎていると思う。骨格はよくわかるのに対して細部が甘い。テーマが先に立ってしまっていると思う。


「太平洋プロジェクト」
隣に来ていたサークルさんの同人誌。表紙は、青と白にイルカと錨のマークがついて、さらにPP加工されているので青く光ってとても綺麗。短歌が書きこまれたしおりがついてきていて、非常に趣味の良い感じ。版組はとてもゆったりしていて、余白も多い。たぶん市販小説単行本クラスの文字数にしてあって、読みやすさに配慮したつくり。

内容。
寶洋平「あれから」 東京・カナコのニャロメ 横浜・ユウキの手紙
河上大樹「リハビリテーション

「あれから」はふたつの短篇で構成されていて、恋人だった二人が離れていく様子をそれぞれ男の側から、女の側から描いている。男女それぞれの側とはいっても、ふたつとも違う話なので内的関連はない。いわば二部作、といった風。最初の「東京・カナコのニャロメ」は、女性一人称がこなれていて、最初から最後まで気持ちよく読めた。たとえば冒頭。

「夏の日の午後、あの人があたしを、居心地がいいうえにデザートがおいしいのでふたりのなかで殿堂入りになっているカフェに連れていって、顔を見据えてあたしの名前をいつになくしっかりとした声で呼んだので、店員を呼び止めてすぐに売り切れてしまうパフェがまだあるかどうかを尋ねていたあたしは注文をしながら咄嗟に身構えたけれど、ぜんぜん間に合わなかった」
語りをうねらせてあって、何かしら混乱した様子が読んでいて伝わってくるし、細々としたことを書きつけていくせいで長く長くなってしまう文節の連なりが、とても「女性一人称」っぽくて(偏見か?)面白い。これだけ読んでも、力のある書き手だというのがわかって楽しかった。

物語を簡単に要約すると、男にとつぜん「好きな人ができた」と言われたカナコ(語り手)が、その男と別れ、新たな恋人を見つけるというもの。女性の心理をぐにゃっとした文体で丁寧に追っているし、その女性の側から見た男ふたりの、身勝手さというか、バカっぽさという感じが良く出ている。

タイトルに「ニャロメ」とあるのは、じっさいにカナコは「ニャロメ」と呼ぶ妙な生き物をときおり見てしまうということがあって、それは自分以外の誰にも見えない。そのことをカナコはたった二人、別れた男と新しい男とのふたりにだけ告白する。それをめぐって男たちがどう答えるかと言うところに二人の顕著な差が出て来る。
個人的にはニャロメというユーモラス、というか作品のそれまでの物語内容を破壊してしまいかねないキャラクタが出て来た瞬間に、もっとおかしな方向へ話が転がるのを期待したのだけれど、そうではなかった。「ニャロメ」が活躍しないのが、ちょっと残念だった。

もうひとつ、「横浜・ユウキの手紙」は十年ほども恋愛を続けてきた恋人同士が別れてしまったこと、男(ユウキ)が女に「本当に好きな人ができた」と別れを切り出してしまった事件を核として、その数年後、ユウキが当の別れた女性に宛てた手紙という体裁の小説。以上を見て、「男が女に別れ話を切り出す」ということを対称軸として二篇が書かれていることはわかると思う。

ただ、作品のトーンはかなり異なる。この男の側から書かれた作品は、三十歳になった自分の半生をふり返りつつ、その三分の一をともに過ごした女性へ、いわば言い訳のようにして書かれている。来歴の説明、別れの事件への釈明、自分が書くこと(この語り手は人生において小説を書くことを選んだ、という設定)を選択すると言うことについて考えたことなどなど。言い訳とは言っても、ぐだぐだしているわけではなく、明晰に、仮借なく語られていて、イヤな自意識が表出されているという感じはしない。もちろん、自分で振った女性にもういちどやり直そうという手紙を書いているのだから、言い訳めいた感じは消えない(「サヨコ、僕はずるくて弱いです」)。この手紙を受け取った女性が、その手紙を汚らわしそうにゴミ箱に投げ捨てる光景が浮かばないわけでもない。そういうことはしないキャラクターだとは思うけれど。ただ、この作品の「完璧」と形容される女性のイメージがあまり明確にならないとは思った。当の女性に宛てているのだから、その女性を描写するきっかけが作りづらいのだろうけれど、「ニャロメ」に比べて人物の輪郭が立ち上がらなかった。

それでも、やはり結構面白くて興味がとぎれることなく読めるという点では、きっちりと書かれていて、楽しめる水準の作品であることは確か。書くことをめぐって反省的に書かれた、作家志望の自己反省とも言えるこの小説を、文学フリマという作家志望たちの巣窟とも言えるだろう場所で発表することに、なにがしかの批判的態度、もしくは悪意地を感じて面白くもあった。

好感のもてる小説だ。端的に読んでいて楽しく、時間を忘れることができたという点ですでにある水準は超えていると思う(ものすごい主観的な理由だけれど)。他の作品も読んでみたいと思った。

こういった短篇をいくつかそろえれば商業ベースでパッケージングすることも可能なんではないか。恋愛小説はほとんど読まないのだけれど、そこらの商業作品に伍せるクオリティは持っていると思う。



後半に収録されている、河上大樹「リハビリテーション
キツイ言い方になるかも知れないが、私にはこれは楽しめなかった。いただいた本でもあるし、作者本人に数時間は隣り合わせていたこともあって、微妙に書きづらいが、以下考えたとおりに書く。

物語の冒頭は「月日がある程度、経ってからでなければ語れない出来事がある」と書き出される。
そのあとは友人である「マコト」なる男とバーで語り合っている場面が挿入され、次にこうくる。

「十代のある一年間、ぼくは誰とも喋らなかった」
この「失語」をめぐる記述、これは村上春樹風の歌を聴け」ではないかだろう。私は村上春樹はそれ一篇しか読んでいないので、実は他に参照枠があるのかも知れないが、とにかく「風の歌を聴け」が思い出されて仕方がない。

そう思うと、このバーで語り合う友人の存在や、作中での重要な小道具である音楽、というかそもそも、この小説の文体がきわめて「村上春樹」的であることに気がつき、それでも先を読んでいくと、どんどん「風の歌を聴け」になっていく気がした。

「鼠が笑う」は「文学的」イメージによりかかった作品と思ったけれど、これは「村上春樹」によりかかったように見える。なお悪いことに、この作品からは「村上春樹」の顔しか見えず、この小説の書き手であるはずの「河上大樹」氏の顔が全く見えてこない。
これは異様なことだと思うし、とても不可解だった。

単に「風の歌を聴け」を模倣しているんではなくて「風の歌を聴け」的なモチーフがほとんど無造作に投げ出されている。
風の歌を聴け」では、付き合っていたのだか知り合いだったのか、そういう関係にある女性がとつぜん自殺してしまい、そのことによって失語(書くことの不能)状態に陥ってしまった語り手が、デレク・ハートフィ−ルドを読むとかバーで語り合う友達だとか、出会った女性との関係とか、そういったことを経て、やっと書くことを始めることができるという物語だった(と記憶している。大筋は間違っていないと思うけれど、確かではない)。つまり、その小説自体が、ある治癒の経過であり結果となっている。

この「リハビリテーション」というタイトルはそれを示唆しているんだと思う。しかし、この小説において「リハビリテーション」という語が何か意味があるように見えない。失語状態は、自ら始めて自ら終わらせたものであり(その理由を語り手は覚えていない、と述べる。つまり作品的にはその理由は表向き隠されている)、小説にとって何らかの機能を果たしてはいない。そして、後半、美術館で知り合って、一夜をともにした女性の部屋で、その当の女性がいなくなっていることに気づく(女の消滅!)のだが、そのあと語り手の男は、何をどう思ったのか、さして理由もないのに(会いたければその部屋を再訪すればいい。その部屋から引っ越したり、失踪したと書かれてはいないし、語り手は彼女がいなくなった訳を知ろうとはしない)、再び会おうとする意志を放棄する。
そして、小説の最後の近くでこう語り手は言う。

「彼女はきっとこの世界のどこかに存在するのだろう。けれども僕が経験した、鮮やかなあの彼女の姿は二度と帰ってこないのだ。あるいは彼女自身、それに気付いていたのかも知れない。だからこそ何も言わずにぼくの前からいなくなったのだ。ぼくの胸の中には彼女がいる。ぼくは彼女といるのだ。それだけで十分じゃないか」
ここで語られていること自体に文句をつけたいのではなくて、展開などや語り手の叙述などを読んできても、こう展開してしまうことが納得できなかった。とても唐突に感じられて仕方がない。

物語としても、男が自分の部屋に女性を誘って、その女性が朝起きたときに何の痕跡もなくいなくなった、というのではないのだから、いくらでも再会する手段を講じることができるはずだ。しかし、語り手はそのことに関心を示さない。連絡をしないという積極的な選択をしたのはこの作品の場合、語り手の方であって、女性ではない。そう見ると上の引用のように展開を持っていくのには無理があるように思う。

公刊されたものではなく限られた人しか読むことができない以上、他の人が「いや、ここがいいと思うよ」という反応もあまり見込めないし、好意でいただいたものを悪く言いたくはないのだけれど、読んでみた限り、河上さんには悪いけれども、こういう感想です。