「壁の中」から

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後藤明生「八月/愚者の時間」作品社

八月・愚者の時間 (1980年)

八月・愚者の時間 (1980年)

後藤明生の朝倉

この作品集は、前半と後半で分けられていて、それぞれ趣のちがう短篇が並べられているのが特色。前半には別荘のある追分や、ナナという飼い猫を扱った私小説的な短篇。ここのところ後半に集められている短篇を読み返していたのだけれど、こちらは、後藤明生の本籍地である九州福岡県の朝倉という場所について書かれた短篇といえる。

九州朝倉という土地は後藤明生の本籍地でありながら、後藤自身は一度もそこに住んだことがないという。後藤の父の地元だけれど、彼の両親は結婚後朝鮮の永興に渡り、そこで後藤は生まれた。本籍地は内地のままということが、なにやらよりどころともなっていたらしい。

「植民地暮らしの日本人にとって、本籍地は日本人であることの証明だった。その所番地は現住所以上のものだったと思う。わたしは朝倉の地をまだ見たことのない小学生だった。しかし目の前に朝鮮人がいる以上、自分が日本人であることを忘れることは出来なかった。そしてそのためには朝倉を忘れることは出来なかったのである」179

敗戦後父の地元に帰らなかったのは、父規矩次と祖母が朝鮮の地で死んだため、母の地元に帰ってきたから。

そのせいか、後藤明生は父の故郷、朝倉に妙なこだわりを持っている。祖母の繰り返し教えたことによると、「秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ」という百人一首に有名な天智天皇の歌だが、この「秋の田」とは父の生まれた土地、恵蘇宿のことだということで、それが後藤の記憶に強く残っている。恵蘇宿をなまってヨソンシュクというのがヨソンシュク風らしい。そして、それが後藤の本籍地だ。戸籍では「恵蘇宿」の部分を略して、福岡県朝倉町、となる。天智天皇の母、斉明天皇はその朝倉で死に、その死を悼んで天智天皇は木丸殿を建て、そこで歌ったのが上記の歌だと祖母は言ったそうだ。

後藤にとって九州朝倉の地、というのは、父、祖母、百人一首などがからまりあった、不思議な土地なのだ。この「不思議」というのは後藤明生のおそらくキモといっていい感覚で、ほとんどの作品が何かしら「不思議」さを核にしているんではないかと思う。特に彼の場所に対する感覚はこれに領されていると思われるほどだ。一時期の疑問符を多用した文体や、それ以降の「夢」という言葉が表題になっている作品がわかりやすい例だろう。これはまたあとで。

そこで広島へ行く用事ができたとき、その前に福岡朝倉まで行ってみようと思い立ち、そこへ行ってきたことを書いたのが、後半の短篇群だ。

これらの短篇を読み返したのは、後藤明生の後期の特徴的な小説手法のひとつ「引用」が大々的に開始される時期の作品だからだ。