「壁の中」から

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後藤明生「壁の中」・5

太宰治全集〈2〉 (ちくま文庫)

太宰治全集〈2〉 (ちくま文庫)

正宗白鳥内村鑑三、そして西洋の三角関係

「壁の中」の終盤で、正宗白鳥が出てくる。正宗白鳥が出るあたりというのは、小説としてけりをつけるために超特急で議論が展開していくようになっていった部分で、かなり急いでいるのが目に見える(作中、対話相手の荷風に「新幹線式」か、などと言われている)。そこで出てくるのが、「壁の中」の中心的課題である「日本と西洋」の問題である。そこでとりあげられるのが、正宗白鳥キリスト教との関係である。

正宗白鳥は若い頃に内村鑑三に心酔し、十九歳でキリスト教に入信したが、四年の後棄教した。しかし、それから六十年ほど後、白鳥八十四歳の死の床で、突如キリスト教に回心したというのである。そして語り手は白鳥が書いたエッセイなどを引用し、白鳥のキリスト教には<殉教>が欠かせぬらしいことを丹念に追っていくのである。そして、結論のように、白鳥とキリスト教の関係を以下のようにまとめている。

「聖書とキリスト教を中に挟んで、ニキビ面の中学生が互いに競争している。聖書に対して果たしてどちらがよりマジメであり、より忠実であったか。どちらがより良心的で、真の愛を抱いておったか。白鳥センセイは、その秤として、<殉教>を挙げたわけです。/要するに、白鳥センセイにとって<聖書><キリスト教>は、<舶来のマドンナ>なんですよ。そのマドンナに田舎のニキビ中学生が憧れ、こがれた。ところがマドンナ様は、どうやら<殉教>を強要されるらしい。しかし自分は、もともとホリュウの質だ。子供の時分から胃腸が弱い。とても<殉教>の苦難には耐え切れそうもない。さて、どうしたものか。仕方がない。マドンナ様への敬愛と思慕は絶ち難いが、ここは耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、イサギヨク諦めよう。しかしこれは決してマドンナ様への<裏切り>でもなければ<心変り>でもない。いや、反対に、マドンナ様への純粋な愛を守るためだ。そしてこの誠心はマドンナ様にいつかは通じるはずである。いや、もし仮に通じなくとも、時分は自己欺瞞の罪だけは犯したくない。と、まあ、これが白鳥センセイの<棄教><転向>の論理です。/ところが、内村鑑三の存在が気になって仕方がない。(中略)あの男、<殉教>出来もしないくせに、マドンナ様への愛情をしゃあしゃあとまくしたてているとは、何たることか。何たる厚顔、何たる無恥ぞ! マドンナ様! 彼は嘘つき男です。あんな男の誓文、恋文を決して信用なさってはいけません。あの男はあなたのために<殉教>する勇気など本当は持っていないのです」(「壁の中」550〜551ページ)

後藤明生にかかると、内村鑑三正宗白鳥がマドンナに憧れるニキビ面の中学生になってしまう。彼らのキリスト教経験については私は全く知らないので、この要約、喩えが果たしてどれほど正当なのかはわからない。しかし、これはかなり傑作な話じゃないだろうか。こういうユーモラスな視点というのがやはり後藤明生独特の魅力で、後半部分の妙な必死さが感じられる・感じさせる部分はもう、真骨頂だ。


●太宰とヘパイストスの哀れな滑稽さ

作中ではほかにも、こういう部分が多々存在する。醜男で知られているはずのギリシャ神話の神・ヘパイストスが、なまじ美の女神アフロディテと結婚したために、妻の浮気に悩まされていることを、こんこんとゼウスに説き聞かせるところもそうだ。哀れな男の弁明である。少し脱線するが、この部分はこのあとに「東洋の島国」の「太宰治という作家」が書いた「懶惰の歌留多」の話になってしまう。なぜかというと、この作にヘパイストスがローマ名であるところのヴァルカンが、美男子として出てくるからだ。

そして太宰の墓には若い女性が群がっているということを語ったあと、ヘパイストス風の語り手はこう語る。

「もし仮に、わたしが彼女たちの前に姿をあらわし、「私を信じなさい」といっても、彼女たちは信じない。あのヴァルカンは贋物です、本物はこの足の曲がった醜男の鍛冶屋なのですと、いくらわたしが繰り返しいったところで、彼女たちは信じますまい。だからこそ彼女たちは、ダザイの墓石のまわりに群がり、その彫まれた文字にサクランボを詰め込んでいるのでしょうから! つまり、彼女たちにとっては、すでにダザイがヴァルカン様なのです!」(「壁の中」267-268P)

醜男のはずのヘパイストスが、女性にもてる作家に美男子であると書かれた、というとても微妙な関係。ただ、ここでヘパイストス(風の語り手)は僻むわけではなく、地球上に美男子のヴァルカンを祀る国が一つくらいはあってもいい、ダザイにはむしろ感謝していると言ったりする。ただそれでも、やっぱり自分は不幸なのではないかとヘパイストスは考える。

ここのくだり、後藤明生のユーモラスな眼差しが典型的に現れている部分だと思う。哀れな男の滑稽さとでも言おうか。そういうものへの注視が、後藤明生のユーモアの一つだ。ヘパイストスのくだりを特に持ってきたのは、ここでは、ヘパイストスが自ら語る(のを装った語り手が語る)哀れな身の上話の途中で、とつぜんダザイの話が始まるというのは上記した通りだけれど、そこでダザイの「懶惰の歌留多」の話から、とつぜん、太宰の芥川賞落選話になるのである。つまり、哀れな男の身の上話に挾まれた、もうひとりの哀れな男のエピソード! 滑稽さ倍増計画である。

この哀れさと滑稽さというのが後藤明生の面白いところで、これがちょっと前にも書いた恥辱と自意識のテーマに繋がっている。恥辱と自意識、または「汚辱にまみれた自意識」、これが「壁の中」前半のライトモチーフになっているというのも書いた。この自意識を滑稽さとともに描き出すこと。それがおそらくは後藤明生のひとつのテーマではあるだろう。それはもちろん、ここでは触れないが「赤と黒の記憶」以来の、後藤明生自身の体験に根ざしてはいるのだろう。そして後藤は、その恥辱の自意識を方法的に喜劇化しようと試みた。

それがヘパイストスと太宰治である。さらにその方法の起源がゴーゴリであり、ドストエフスキーであり、カフカである。後藤明生ドストエフスキー論「ドストエフスキーのペテルブルグ」は、「壁の中」で扱っているテーマを論文、エッセイの形で書いていて、非常に参考になるのだが、そこには以下のように書かれている。

「(ゴーゴリ「外套」では)もちろん「語る」のは九等官自身ではない。いわゆる「内面」のモノローグもない。彼はただ、「他者の言葉」によって外部から「語られる」存在であって、彼自身の言葉をほとんど全面的に放棄している。あるいは、掠奪されている、といってもよいが、とにかく、彼の「自意識」は空洞である。もちろん、その空洞は、作者ゴーゴリがそれを無視したためであるが、おそらくドストエフスキーは、その空洞を言葉で埋め尽くそうとしたのである。
 自分の言葉を放棄した、あるいは掠奪された九等官に、喋って喋って喋るまくらせること。『外套』の主人公の、無視され空洞化された自意識をあぶり出し、中年の孤独な万年九等官を「自尊心」と「屈辱感」との分裂病患者に異化すること。これがドストエフスキーの『外套』に対する批評であり、「外套」の「読み換え」であり、そのパロディー化の基本ではないかと思う」(「ドストエフスキーのペテルブルグ」59-60P)

ここでは「中年の孤独な万年九等官」となっている(「貧しき人びと」)が、これはそのまま「地下生活者の手記」にあてはまる。ここで言う異化とは、そのまま喜劇化と言い換えて構わないだろう。「地下生活者の手記」は、恥辱にまみれた自意識、または、恥辱によって生まれた自意識の絶え間ない循環構造を、言葉で埋め尽くし、喜劇化したといえる。おそらく、後藤明生の「壁の中」の目論見もこの路線に沿っている。


●自意識の喜劇化

しかしそれは「地下生活者の手記」のようにはならない。現代人の分裂というものが、ドストエフスキーの時代とはちがって、より複雑になってしまったからだ。そこで後藤明生は「父と子」、つまり、昭和現代人と明治人というかたちで、先代の「分裂」を明示することによって、現在の「分裂」に目を向けさせようとしている。「われは明治の児」の子なりけり、というわけだ。

そして荷風と白鳥は、分裂しながらも自らの分裂は言い立てず、相手(白鳥ならば内村鑑三)こそが分裂した、矛盾した人間だと言い立て、自らの純粋さを強弁するのである。しかし、その振る舞いこそが分裂したバラバラ人間のバラバラたるゆえんであると語り手は言う。

「もっとも、中には、最後まで自覚症状を持てないバラバラ人間もいるそうです。つまり自分がバラバラ人間であることを意識しないバラバラ人間ということになりますが、それは本当は意識出来ないのではなくて、ある種の強迫観念のせいらしいですね。
 簡単にいえば、それは<バラバラ>はよくない、という強迫観念があり、その裏返しとして、自分だけは<バラバラ>ではないというナルシズムに満足を求めるらしい」(「壁の中」563P)

似たような文言が「ドストエフスキーのペテルブルグ」にもあった。これはルネ・ジラール「地下室の批評家」の引用らしいが、以下である。

ロマン主義者は自分自身の分裂を認めず、そして認めないことによって、それを悪化させる。彼は自分が完全に唯一不可分のものであると思いたがる。そこで、彼は二つに分かれた自己の存在から一つを選び出す。いわゆるロマン主義の時代では、それは一般に理想的な崇高な半身であるが、今日ではむしろ卑小な半身である。そして彼はこの半身を自己全体として通用させようと努める。自尊心は自分の周囲に現実全体を集め、統一できることを証明しようとする」(104P)

そういったロマン主義を批判し、ナルシズムを挫折させることが、後藤明生の試みの一つだと思う。前半部分の日常描写でも、自分自身を滑稽なものと見る眼差しが働いている。その眼差しがこの小説の方法を要請するのである。「壁の中」の小説形式のバラバラぶりは、つまりはそういうことだろうと思う。


●「壁の中」から

そして、明治の児の子の昭和現代人が「バラバラ人間」であり、われわれがさらにその彼らの子である以上、われわれも分裂した「バラバラ人間」であることから逃れられない。バラバラ人間とは、西洋と日本とに引き裂かれた近代知識人のことであり、また決して逃れることの出来ない恥辱としての自意識を持った、人間すべてのことだろう。そして、「壁の中」で作中の語り手が延々と正体不明の人物に手紙を書きつづっていたように、自意識が生んだ滑稽なる言葉を書き連ねるというわけだ。